ブライアン・デ・パルマ 『パッション』 レビュー

Review

表層と無意識、現実とイメージ――独自の視点で描く個と世界

ブライアン・デ・パルマがどんな映像作家であるのかを説明するのは容易ではない。70年代から80年代初頭にかけて『悪魔のシスター』(73)、『キャリー』(76)、『殺しのドレス』(80)、『ミッドナイトクロス』(81)といった作品で頭角を現したときには、アルフレッド・ヒッチコックの影響が顕著だったことから、その後継者と位置づけられていた。それらの作品に盛り込まれたスプリット・スクリーン、スローモーション、短いカット割り、カメラの360度回転や一人称のアングルといった映像表現は、デ・パルマ・カットと呼ばれ、熱狂的なファンを生み出した。

しかし、ハワード・ホークスの『暗黒街の顔役』の現代版である『スカーフェイス』(83)以降は、『アンタッチャブル』(87)や『ミッション:インポッシブル』(96)のような人気TVシリーズを映画化した娯楽大作から、『ミッション・トゥ・マーズ』(00)のようなSFやジェイムズ・エルロイのベストセラーを映画化した『ブラック・ダリア』(06)のようなノワールまで、様々なジャンルの作品を手がける作家へと変貌を遂げてきた。

デ・パルマの美学が最も輝きを放つのが、サスペンス・スリラーのジャンルであることは間違いないが、一方で彼の作品には、ジャンルでは括れない独自の視点が埋め込まれてもいる。デ・パルマは、幼年期に厳しく理解のない父親や兄に抑圧されていたことがトラウマとなり、それが映画に登場する男女の関係に様々なかたちで反映されている。


たとえば、『殺しのドレス』で、無残に殺害される主婦が欲求不満に苛まれていたのは、夫が自己満足しか求めない男だったためであり、また、事件を知った息子は母親と外出する約束を破ったことを後悔することになる。ホラーの古典『オペラの怪人』の舞台をロックの殿堂に置き換えたミュージカル『ファントム・オブ・パラダイス』(74)では、青年作曲家が大物プロデューサーに楽曲を奪われ、想いを寄せる歌手との関係を引き裂かれる。

さらに、こうした男女の関係は、ジャンルを超えて父権制社会や男性中心主義を炙り出すようなドラマへと発展していく。ベトナム戦争やイラク戦争を題材にした『カジュアリティーズ』(89)や『リダクテッド 真実の価値』(07)からは、ベトナム人やイラク人の娘をレイプする兵士たちとそれをどうすることもできない兵士という図式が浮かび上がってくる。『スネーク・アイズ』(98)で、暗殺された国防長官をめぐる陰謀を暴こうとするヒロインは、父権制社会に挑む女性でもあり、堕落しきった主人公の刑事は、双方の間で難しい選択を迫られることになる。

デ・パルマの新作『パッション』は、こうした軌跡を踏まえてみるとより新鮮に感じられるはずだ。主人公のクリスティーン、イザベル、ダニは三人とも女性で、父権制社会や男性中心主義を象徴するような男性が絡んでくることもない。彼女たちはみなしたたかで油断がならない。クリスティーンはイザベルの手柄を横取りするばかりか、あの手この手で彼女を翻弄する。イザベルも、ロンドンのプレゼンテーションのあとでダニをねぎらってもおかしくないところだが、嘘をついてダークと甘い時間を過ごしている。そしてダニもまた激しい執着心で巻き返しを図る。

しかしこれは、上司と部下が壮絶なパワーゲームを繰り広げるだけの映画ではない。このドラマでは、広告代理店という舞台から日常に浸透するスマホまで、イメージが生み出す力が彼女たちに様々な影響を及ぼしている。デ・パルマはそれを非常にユニークな視点で描いている。

彼の視点のヒントになっているのは、劇中でイザベルが鑑賞するバレエ、ジェローム・ロビンスが演出を手がけた「牧神の午後」だ。このバレエの舞台は、三方を壁に囲まれ、男女のダンサーから見た客席側が鏡という設定になっている。そんな空間で踊る男女は、鏡を見つめ、鏡を介して自分と相手を認める。二人は直接見つめ合い、触れ合いもするが、同時に鏡に映るイメージと戯れていることにもなる。つまり、二人の関係には現実とイメージが入り混じり、お互いの実体を曖昧なものにしているのだ。

この鏡を見つめる二人の人物という図式は、主人公たちのドラマにも巧妙に取り込まれている。この映画は、クリスティーンとイザベルが肩を並べてパソコンのディスプレイに見入る場面から始まる。さらに映画の後半では、今度はイザベルとダニが、同じように肩を並べてディスプレイに見入る。デ・パルマは明らかに「牧神の午後」を意識してこのふたつの場面を撮っている。パソコンのディスプレイはバレエと同じように鏡に見立てることができる。この主人公たちも鏡に映ったイメージと戯れ、そんな三者の世界のズレが、サスペンス・スリラーを成立させるのだ。

クリスティーンが鏡になにを見ているのかは、双子の姉と自転車をめぐる思い出話が示唆している。幼い彼女は自転車を漕ぐ自分の姿が見たくなり、窓に映る自分の姿に見入るうちに車道に出てしまった。その窓もまた鏡であり、彼女にとっては自分の姿がすべてだといえる。だから、自分の顔に似せたマスクを用意し、ダークにそれを被らせ、自分とのセックスに溺れる。

双子の話が本当かどうかは必ずしも重要ではない。なぜなら、彼女が必要としているのは、自分を取り巻く人間を思い通りにすることであり、彼女自身にももはやなにが事実なのかわからなくなっているように思えるからだ。いずれにしても彼女にとっては表層がすべてであり、だからこそ自分を出し抜いたイザベルにはスマホや監視カメラの映像というイメージで報復する。

イザベルの世界は、まったく異なるアプローチで表現される。それは黒髪に黒ずくめのファッションと呼応しているともいえる。夜や眠りと結びつけられているからだ。この映画では、彼女が眠りから目覚める場面が執拗に繰り返される。

新しいスマホの広告のアイディアを思いつくときも、ビデオを動画サイトで公開した後で社長からの電話がくるときも、出社したダニが駐車場の車のなかにいる彼女に気づくときも、クリスティーンが殺害されて刑事たちが彼女を訪ねてくるときも、刑務所の牢のなかにいることにはじめて気づくときも、彼女は眠りから目覚める。そして、映画の最後の山場も、彼女が携帯の呼び出し音で目覚めるところから始まる。こうした表現は、表層がすべてのクリスティーンに対して、彼女の実体が無意識の領域に潜んでいることを示唆する。だから、彼女が見せる表情や行動は見せかけかもしれないのだ。

これに対して、ダニの実体はまずなによりもセクシャリティや肉体にあるといえる。それは現実であり、想いを寄せるイザベルとの壁は超えがたいように見える。しかし、イメージの力が彼女を変えていく。クリスティーンとイザベルの仲直りのキスは、双方の思惑が絡み合った見せかけのものだが、ダニにはそうは見えないだろう。さらに、クリスティーンがダニを辞めさせるために仕掛ける暴行の芝居は、単なる命令以上に相手を支配するようなイメージの力があることを彼女に思い知らせるはずだ。だからこそダニは、映像というイメージの力によってイザベルを支配し、超えがたい壁を超えようとする。

この映画の主人公たちは、生身の他者と対等な関係を構築することを放棄し、現実を捩じ曲げて自分中心の世界に作り変えるようなゲームの世界を生きている。そして、そんな世界では、どこまでが現実でどこからが幻想なのかわからなくなっていく。父権制社会や男性中心主義が支配する世界から踏み出したデ・パルマは、この新作で、スマホのような情報端末の浸透によって急激に変化していく個人と世界の関係を独自の視点と表現で描き出している。

(初出:『パッション』劇場用パンフレット)