ニコラス・ウィンディング・レフン・インタビュー 『オンリー・ゴッド』

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アートとは感情の解釈でその根底には衝動があり、セックスと暴力がキャラクターを定義づける

デンマーク出身の異才ニコラス・ウィンディング・レフン監督とライアン・ゴズリングが再びタッグを組んだ新作『オンリー・ゴッド』には、『ドライヴ』とはまったく違う世界が広がる。

この映画を観てまず思い出すのは、レフン作品の主人公たちが、その暴力性とは相容れないような複雑なセクシャリティを体現していることだ。タイのバンコクを舞台にした新作の主人公は、兄とともにボクシングジムを隠れ蓑に麻薬取引で幅を利かせるジュリアンだが、この人物も例外ではない。

僕が描くキャラクターたちはそのセックスライフによって定義されている。というのも、アートというのは感情の解釈であって、その根底には衝動があり、セックスと暴力がキャラクターを定義づけるからだ。たとえば『プッシャー』の主人公は、セックスをしない男で、女に愛情表現ができないために自分の首を絞めてしまう。『ブロンソン』の主人公は、名声を得たいがために刑務所に入る。自分のセックスライフを放棄する代わりに名声を手にするわけだ。『ドライヴ』でゴズリングが演じる男は、いわば純愛信奉者で、観念的な愛を求めるので彼女と結ばれることがない。『オンリー・ゴッド』のジュリアンの場合は、母親の子宮に鎖で繋がれ、それを断ち切れない男だ。だからセクシャリティが歪み、セックスができず、暴力で発散する


新作は兄の死を発端に異様な復讐劇へと発展していく。巨大組織を仕切る母親がアメリカから駆けつける。彼女とジュリアンの前に立ちはだかるのは、不気味なオーラを放ち、罪を犯した兄を裁いた元警官チャンだ。

この神話的な物語のなかで、母親はとてつもなく巨大な存在だ。彼女は強靭な意志を持ち、考え方は非常に男性的だが、挑発的な容姿で人を操るという意味ではとても女性的で、(シェイクスピアの『マクベス』に登場する)マクベス夫人に近い。息子がそんな母親から自分を切り離すためには媒介が必要になる。チャンはそんな彼を母親の子宮に導くガイドであり、子宮を貫くことで、呪縛を解かれる。それは神のような存在の媒介がなければ辿り着けないような結末で、『ヴァルハラ・ライジング』の最後の場面に通じるものがある

レフン監督はその神のような存在を際立たせるためにカラオケを大胆に使っている。カラオケで歌うチャンは、教会でミサを執り行う司祭のようにも見えるからだ。

僕自身はカラオケが大嫌いだけど、タイに来てみて、みんなが大真面目にやっているのが面白いと思った。特に中華街で目にした民家のようなカラオケバーは、そこだけタイムカプセルのように異質な空間になっていて、かつアジア的だとも思い、映画でもカラオケを使うことにした。チャンが着ている黒と白を基調にした服は、実際に退職した警官が着るユニホームだけど、神父のようにも見えるのでうまく使えた。この映画のカラオケはミサのような儀式で、チャンが歌うことがチャネリングのようにそこにいる人々に伝わっていく。彼は全部で3曲歌い、1曲目は復讐を、2曲目は和解を歌っていて、最後は僕がたまたま耳にして気に入ったヒット曲なんだ

(初出:「CDジャーナル」2014年2月号)