ミケランジェロ・フランマルティーノ 『四つのいのち』 レビュー

Review

ドキュメンタリーとフィクションの境界を超え、独自のアニミズムの世界を切り拓く

イタリア出身の新鋭ミケランジェロ・フランマルティーノが監督した『四つのいのち』(2010)の舞台は、南イタリア・カラブリア州の山岳地帯だ。映画の導入部では、黙々と山羊の世話をする年老いた牧夫の生活が、静謐な映像のなかに描き出される。

だがこの牧夫はタイトルにある“四つのいのち”のひとつに過ぎない。やがて彼は息を引き取り、入れ替わるように仔山羊が誕生する。その仔山羊は群れから逸れ、樅の大木の下で眠りにつく。冬が過ぎて春になると樅の大木が切り倒され、村の祭りのシンボルとなる。そして祭りが終わると、大木は伝統的な手法で炭となる。この映画では、人間、動物、植物、無機物がサークルを形成していく。


環境倫理学の創始者のひとりJ・ベアード・キャリコットはその著書『地球の洞察』の冒頭で、このようなことを書いている。西洋哲学は長年に渡って人間中心主義の立場をとり、「自然は「人間」のための支援体制や共同資源、あるいは人間のドラマが展開する舞台に過ぎなかった」。これに対して環境倫理学者たちは、「人間の位置を自然のなかに据えて、道徳的な配慮を人間社会の範囲を越えてひろく生物共同体まで拡大しようとした

そんな視点を反映した作品は、必ずしも珍しいものではないが、この『四つのいのち』には独自のアプローチと表現がある。

たとえば、この映画は、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『ブンミおじさんの森』と同じように、アニミズムの世界にまで踏み出している。しかし、2作品から受ける印象には大きな違いがあるはずだ。

『ブンミおじさんの森』の場合には、すぐにフィクションであることがわかる。ところがこの映画は、ドキュメンタリーのように見える。但し、ドキュメンタリーに見えるように細工しているわけではない。

フランマルティーノは、カラブリアの生活、伝統的な祭り、炭焼きの技法などについて、フィールドワークに近いことを行っている(と思われる)。この映画には一切セリフがなく、すべては映像と風や動物の鳴き声、自然や生活を営む音で表現される。

だからドキュメンタリーのように見える。導入部の牧夫の人生などは、レイモン・ドゥパルドンの『モダン・ライフ』(あるいはそれを含む“農民の横顔”三部作)を想起させる。

作家のアモス・オズが講演集『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』で語っているように、人はほんの150年くらい前までは、自分が生まれた場所の近辺で一生暮らし、親と似た仕事をし、行いがよければ死後にもっとよい世界が待っていると信じていた。

『モダン・ライフ』に登場する高齢の農民たちは、いまもそのような生き方をしている。そして、『四つのいのち』に登場する牧夫、教会の床の埃には癒しの力があると信じ、それを薬のように水に混ぜて飲むこの牧夫もまた、そのように生きているように見える。

ちなみに、フランマルティーノ自身は、プレスのインタビューのなかでこのように語っている。

「カラブリアの牧夫たちと過ごした経験が私に動物をクローズ・アップで見る機会を与えてくれ、その後、動物の世界に夢中になりました。カメラを気にしない動物たちは、フィクションとドキュメンタリーの垣根を超えたいという、私が映画を作るときにいつも抱いている願望を果たさせてくれました」

また、この映画では独特のユーモアが印象に残る。たとえば、蓋をした鍋に閉じこめられたカタツムリがいつの間にか外に這い出していたり、犬が巻き起こすハプニングが計算された長回しで描かれている。それらはおそらく、この映画がドキュメンタリーではないことを示唆するサインなのだろう。

もちろん、こうした(ドキュメンタリーに見えてそうではない)フランマルティーノのスタイルに疑問や抵抗を覚える人もいるはずだ。

そこで筆者が思い出すのが、ノルウェー出身のサウンド・アーティストJana Winderenのことだ(Jana Winderen 『Energy Field』 レビュー)。彼女は、自然のフィールド・レコーディングで採取した音源を作曲のための素材と位置づけ、重ねたり編集することでサウンドスケープを作り上げている。

フランマルティーノも同様にドキュメンタリー作家ではなくアーティストとして、独自のアニミズムの世界を切り拓いているといえる。

《参照/引用文献》
●『地球の洞察 多文化時代の環境哲学』J・ベアード・キャリコット(みすず書房、2009年)
●『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』アモス・オズ 村田靖子訳(大月書店、2010年)

(初出:「CDジャーナル」2011年5月号、加筆)

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