アッバス・キアロスタミ 『トスカーナの贋作』レビュー

Review

監督には性格が悪いところもないと面白い映画は作れない

『トスカーナの贋作』は、アッバス・キアロスタミがイランを離れてから初めて撮った長編作品だ。

物語はイタリアの南トスカーナ地方にある町アレッツォから始まる。『贋作』という著書を刊行したイギリスの作家ジェームズ・ミラー(ウィリアム・シメル)がこの町を訪れ、講演を行っている。会場にいた女(ジュリエット・ビノシュ)が、ぐずる息子をもてあまし、作家の著作の翻訳者にメモを渡し、その場をあとにする。

そのメモはジェームズに届けられ、彼の関心を引いたらしい。作家は彼女が経営するギャラリーを訪れ、二人は車でルチニャーノに向かい、美術館や町を散策する。贋作について議論を交わす彼らは、カフェの女主人に夫婦と勘違いされたことをきっかけに、夫婦のように振る舞いだす。

「本物」と「偽物」、「現実」と「虚構」が入り組み、その境界が曖昧になるような構成や表現は、キアロスタミがイランでもやっていたことなので、その点については特に新鮮さを感じるわけではない。むしろ、イランではそうしたアプローチを駆使して社会を掘り下げることができたが、海外に出てしまうと、どこでも当たり前に通用する題材を選ばざるをえないのかとすら思う。

しかし、だからといってこの映画がつまらないというわけではない。筆者には、まったく別の部分にこの監督の個性が発揮されているように思えた。

キアロスタミにインタビューしてみるとわかるが、彼にはちょっとひねくれているというか、意地悪なところがある。それが悪いというつもりはまったくない。むしろ監督にはそういう資質も必要であり、彼はそれを十分に備えている。そしてこの映画では、その資質が遺憾なく発揮され、独特のテンションや深みを生み出している。

筆者が注目したいのは、作家の講演をめぐるプロローグだ。その会場を抜け出した彼女と息子がハンバーガーショップで繰り広げるやりとりが印象に残る。息子は、作家に好意を持っているように見える母親の痛いところを言葉でちくちくと突く。それが半端ではない。

いたたまれなくなった母親は、席を立ち、逃げ出すように画面の奥の方に移動する。カメラのピントは手前に合っているので、彼女の姿はいくぶんぼやけているが、それでも煙草を吸っているのがわかる。ちなみに、彼女が煙草を吸うのはこの場面だけだったと思う。

一方、ジェームズの講演にも注目すべき点がある。講演の最中に彼の携帯が鳴り出す。常識的にはその連絡は後回しにするはずだが、この作家は電話に出て、平気で話をしている。どうもそういう一線にはこだわらないタイプの人物らしい。

二人の主人公をめぐるこのエピソードは、その後のドラマの伏線になっている。

まず二人が車を降り、美術館に入る前に、息子から母親に電話が入る。彼女は、息子の筋が通らない身勝手な行動に苛立っているように見える。だがそこで一服するわけにもいかない。おそらく息子の電話は、作家と過ごす彼女の心理に影響を及ぼすことになるだろう。

美術館を出た二人はカフェに入るが、そこでのやりとりが実に興味深い。彼女は作家に本のアイデアをどこから得たのか尋ねる。彼は、シニョリーア広場である親子を眺めているうちに閃いたというようなことを答えるが、そのうちに彼女が泣き出し、「他人の話じゃないわ…」と言い出す。

作家が目撃したのは、実は彼女と息子だったのか。だが、別の解釈も成り立つ。その親子の話を聞きながら、彼らに自分と息子を重ねて感情が込み上げたとも考えられる。

ところが、気まずい空気になったところで、作家に電話が入り、彼がしばらく席を外すというのがまた面白い。その間にカフェの女主人が二人を夫婦と勘違いするエピソードが挿入される。電話を終えて席に戻った作家は、彼女の気分がガラリと変わっていることなどたいして気にせず、話の流れに身をまかせ、夫婦として振る舞うゲームを始める。

だが、その流れは長くは持たない。カフェを出て町を歩く母親にまたも息子から電話が入る。当然、彼女は苛立つが、一服する代わりに、夫婦のゲームに息子の存在も盛り込み、筋書きが次第に深刻な内容へと変わっていく。

だからこれは、必ずしも男と女が繰り広げる恋愛ゲームではない。プロローグで示唆されていたことが、曖昧な心理となって絡み合い、予想しがたい物語を紡ぎだしてしまうところに面白さがあるのだ。

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