ジョエル&イーサン・コーエン 『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』 レビュー

Review

名もなきシンガーと入れ替わる猫と死者の気配をめぐる一週間の物語

1961年のニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジを舞台にした『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』は、コーエン兄弟が、伝説のフォーク・シンガー、デイヴ・ヴァン・ロンクの回想録にインスパイアされて作り上げた作品だ。主人公はフォーク・シンガーのルーウィン・デイヴィスで、映画のタイトルもアルバム『インサイド・デイヴ・ヴァン・ロンク』を意識したものになっているが、だからといってヴァン・ロンクの世界に迫ろうとしているわけではないし、当時の音楽シーンを再現しようとするわけでもない。

ルーウィンの物語は、情けないエピソードの羅列に見える。出したレコードは売れない。金も住む場所もないため、知人の家を泊まり歩くしかない。さらに宿を借りるだけではなく、手を出してしまった女友達からは妊娠を告げられる。だが、そんなルーウィンの世界が次第にじわじわと心にしみてくる。情けないエピソードの羅列のなかに、彼が心の奥に秘めている感情が見え隠れするからだ。


映画は、コーヒーハウス、ガスライト・カフェのステージで、ルーウィンが<Hang Me, Oh Hang Me>を歌うところから始まる。これは死にまつわる曲だ。それから、ルーウィンが、大学教授のミッチとリリアンのゴーファイン夫妻が住むマンションで目を覚ます場面もポイントになる。同じシチュエーションが映画の終盤でも繰り返されることになるので、もうひとつのオープニングといってもいい。夫妻はすでに外出しているため、彼は勝手に卵で朝食を作り、レコードラックから自分とかつての相棒マイク・ティムリンのコンビで作ったアルバムを抜き出し、<Fare Thee Well (Dink’s Song)>をかける。冒頭と第2のオープニングの2曲、特に後者が、ドラマのなかで重要な位置を占めていることがやがて明らかになる。

たとえば、映画の中盤でルーウィンが、ゴーファイン夫妻のマンションで開かれたディナーパーティに参加する場面だ。そこで夫妻から歌ってほしいと頼まれた彼は、しぶしぶ<Fare Thee Well (Dink’s Song)>を歌い出す。ところが、リリアンが当然のようにマイクのパートを歌い出したことで、気分を害し、感情を爆発させてしまう。

夫妻を怒らせ、八方塞となったルーウィンは、ジャズ・ミュージシャンのローランド・ターナーとともに車でシカゴに向かう。その車中で彼はターナーに、かつての相棒がジョージ・ワシントン・ブリッジから飛び降り自殺した話をする。その旅の途上でターナーが薬物中毒で倒れるというトラブル(これも死を想起させるエピソードだ)に見舞われたものの、なんとかシカゴにたどり着いたルーウィンは、有名なプロデューサーのオーディションを受ける。ソロ・アルバム『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』からなにか歌うように指示された彼は、男児を出産してこの世を去ったヘンリー8世の王妃ジェーンを題材にした<The Death of Queen Jane>を歌う。これは明らかに相棒マイクの死を悼む歌でもある。

この映画では、情けないエピソードの陰で喪失の痛みがエモーショナルなもうひとつの流れを作り、最後に再びガスライト・カフェのステージに繋がっていく。しかし、そこに話を進める前に、もうひとつ見逃すわけにいかないのが、猫が果たす役割だ。

第2のオープニングで、ルーウィンがゴーファイン夫妻のマンションを出るときに、夫妻の飼い猫も飛び出し、オートロックの扉が閉まってしまう。その部屋には<Fare Thee Well (Dink’s Song)>が流れていたことを踏まえるなら、猫もルーウィンが抱える喪失の痛みと無関係ではなくなる。

実際、この先のルーウィンと猫の関係は非常に面白い。彼は仕方なく猫と行動をともにすることになるが、途中で逃がしてしまう。しかし、運よく見つけ出し、ディナーパーティのときにゴーファイン夫妻に返す。そこで先述したように、<Fare Thee Well (Dink’s Song)>にリリアンが割り込み、ルーウィンが爆発してしまう。ところがそのすぐ後に、彼が連れてきたのが、夫妻の飼い猫ではないことがわかる。であるなら、これまで猫をわずらわしく思っていた彼が、無関係な猫をすぐに街に放してもおかしくない。ところが彼はその猫を連れてシカゴに向かう。

この一連の流れには、コーエン兄弟のひねりが加えられているように思える。<Fare Thee Well (Dink’s Song)>でマイクのパートを当然のように歌おうとするリリアンは、ルーウィンから見れば偽者である。逆に、そのリリアンから偽者とされた猫に、孤立するルーウィンは奇妙な親近感を覚える。そんな猫は、ニューヨークとシカゴを往復する旅のなかで、様々な生と死のイメージと結び付けられることになる。

そして、ルーウィンと猫との関係は、ゴーファイン夫妻のマンションで締め括られる。謝罪のために夫妻を訪ねた彼は、飼い猫が自力で戻ってきたことを知る。その翌朝、第2のオープニングと同じようにそこで目覚めた彼は、今度は外に出ようとする猫を食い止める。それはルーウィンの変化を示唆している。一週間というこの物語の時間は、ルーウィンが喪に服す時間でもあり、彼がひとりで夫妻のマンションを後にすることは、喪が明けることを意味してもいる。

再びガスライト・カフェのステージに立ったルーウィンは、<Hang Me, Oh Hang Me>と<Fare Thee Well (Dink’s Song)>を歌うが、特に心にしみるのはやはり2曲目だ。第2のオープニングでレコードをかけるときは、ルーウィンとマイクのデュオだった。ディナーパーティのときには、リリアンが割り込んできた。しかしこのステージでは、彼がひとりで歌い切るのだ。