ジャファール・パナヒ 『これは映画ではない』 レビュー

Review

パナヒと映画の登場人物の思い、外で爆竹を鳴らす人の思い

反体制的な活動を行なったとして6年の懲役と20年の映画製作禁止を言い渡されたイランの名匠ジャファール・パナヒ監督。

『これは映画ではない』は、軟禁状態にあるパナヒが、友人のモジタバ・ミルタマスブ監督の協力を得て自宅で撮り上げた異色の作品だ。彼はUSBファイルに収めた映像をお菓子の缶に隠し、ある知人に託して国外に持ち出した。

このタイトルには、映画でなければ何を作っても違反にならないだろうという痛烈な皮肉が込められているが、中身の方も一筋縄ではいかない。

自宅で脚本を読むだけなら問題ないと考えたパナヒは、絨毯にテープを貼って舞台を作り、撮影許可が得られなかった脚本を再現していく。やがてそれでは物足りなくなり、過去の監督作のDVDを再生しながら、映画とはなにかを語り出す。


そんなエピソードからは彼の焦燥感が浮き彫りになるが、決してそれだけではない。これは驚くほど緻密に計算されたドラマのように思えてくる。

筆者がまず注目したいは、火祭りが行なわれる年末の最後の水曜日を背景にしているということだ。イランのように中流と下層の格差が大きな問題となり、大統領選にも影響を及ぼす国では、ある程度の無礼講が許される火祭りが緊張をはらむ。

たとえば、火祭りを背景にしたアスガー・ファルハディ監督の『花火の水曜日』(06)には、一人で道を歩いている女性に、バイクに乗った二人組が背後から爆竹を投げつけて脅かす場面があった。

この映画の火祭りについては、2009年の大統領選を踏まえておくべきだろう。保守強硬派のアフマディネジャドは再選を果たしたが、改革派の支持者たちは不正があったとして抗議デモを繰り広げた。

その不満がいまだに燻り、当局が突発的に起こる騒乱を警戒していることは、劇中に挿入されるテレビのニュースから察せられる。さらにパナヒの友人からの電話で、町に群集と武装警官が溢れ、異様な熱気に包まれていることも明らかになる。

この映画でパナヒは、屋内の自己の世界と見えない外部の世界を巧妙に結びつけていく。あたかも成り行きであるかのようにカメラを抱えて外に踏み出しかけるパナヒが目にするのは火祭りの炎だが、そこには彼と彼の映画の登場人物たちの思い、そして外で爆竹を鳴らす人々の思いが見事に集約されている。

(初出:「CDジャーナル」2012年10月号)