『MY HOUSE』 『まだ、人間』 試写+『アトモスフィア』上映会

試写室日記

本日は銀座近辺で試写を2本観たあとで、新宿眼科画廊で開かれた上映会に参加した。まったくの偶然だが、3本ともそれぞれに日本の現在、日常を強く意識した作品だった。

『MY HOUSE』 堤幸彦

堤監督がエンターテインメント大作とはまったく違うタイプの作品に挑戦。自分の意思でホームレスという生き方を選び、厳しい環境を受け入れつつも、都会に順応して軽やかに生きる主人公を通して、私たちの日常を見直す。音楽なしのモノクロ映画で、台詞も最小限といえるところまで削ぎ落とされている。

筆者が最も興味を覚えたのは、人物のコントラストを意識したドラマの構成だ。主人公のホームレスと普通の家族を対置させるような表現は不思議ではない。この映画では、主人公の可動式の家と郊外の小奇麗な一戸建てが対置される。その一戸建てには平均的な家族が暮らしているように思いたくなるが、この映画の場合はそうではない。


とにかく強烈なのが、木村多江の専業主婦だ。すさまじい潔癖症で掃除や消毒ばかりしている。筆者は、トッド・ヘインズが監督した『SAFE』(95)のヒロイン、ジュリアン・ムーアが演じるあの専業主婦のことを思い出していた。

そこまで連想させるとなると、もはやホームレスとのコントラストを生み出すための存在を超えて、独立した主人公に近い。筆者は彼女がやがて『SAFE』のムーアのような運命をたどるのではないかという胸騒ぎを覚えていたのだが…。そういう想像をさせて、あっさり突き放すのも堤監督の戦略だろうか。

『まだ、人間』 松本准平

正直いって筆者にはしんどかった。84年生まれという監督の年齢を踏まえるなら、演出力や技術がないわけではない。キャストも悪くないし、熱のこもった芝居をしていると思う。それでもこの映画の世界は遠く感じられる。

あとでプレスに添えられた監督のインタビューを読んで、なんとなくわかる気がした。松本監督は、大学在学中にNPO法人を立ち上げ、仲間と伝達手段を模索しているなかで、映画でいいんじゃないと言ってしまったことが、映画を作るきっかけになったという。

だから元々は映画が好きで映画を始めたのではないです。僕にとって映画はそういったツール、媒体だったんです。今でもその意識は他の方より強いと思います

たとえば、筆者が違和感を感じるのは、映画のなかに出てくる「東京の真ん中はからっぽ」という表現だ。からっぽであれどうであれ、真ん中という発想自体がもう遠い昔に崩壊していて、いまではかろうじて文学的な表現として許容できる程度ではないのだろうか。同じようにドラマも、文学的といえないことはないが、映画的には迫るものがない。

『アトモスフィア』 佐々木友輔

『新景カサネガフチ』につづく佐々木監督の新作の上映会が新宿眼科画廊で開かれた。『手紙』(02)から『新景カサネガフチ』(10)にいたる佐々木監督の作品については、以前ブログでも告知した『floating view 郊外から生まれるアート』([編]佐々木友輔)所収の「サバービアは今も憂鬱か――ゼロ年代以降のサバービアムービーと郊外映画」で言及しているので、そちらをお読みいただきたい。

まずは新作『アトモスフィア』(11)の概要をちらしから引用しておく。「ホームビデオで撮影されたとある夫婦の日常、夫婦の住む街の歴史について語る講演会の録音音声、そして流産で娘を失った女の「語り」、3つの位相の異なる物語が映画の上で出会い、かさなりあう。新しい「映画」のかたちを求めて辿り着いた、21世紀の家族映画=ホーム・ムービー

映画を観てまずその完成度の高さに息を呑んだ。これまでとは違うさまざまな表現が印象に残る。佐々木監督がかたちを変えて引用してきた累伝説が影を潜めている。モノローグや限りなく風景に近い映像で表現されてきたドラマが、今回は実際に俳優によって演じられている。

『新景カサネガフチ』と同じくヴィラ・ラクテアと呼ばれる新興住宅地が舞台になるが、この街はまったく異なる運命をたどる。映画に3・11以後の視点が埋め込まれているからだ。この名前のもとになっているのが「天の川」を意味するヴィア・ラクテアであることを踏まえるなら、流れなくなった川、あるいは涸れた川になってしまったともいえる。

セピア調のモノクロームの映像が、時間や空間を曖昧にすると同時に、統一感を生み出している。講演会などの文字起こしの内職という設定が盛り込まれているため、「語り」や入力された「文字」がごく自然に、しかも密接に主人公たちと絡み合っていく。

では、そうした表現が緻密な構成によってまとめあげられるとき、なにが見えてくるのか。タイトルの“アトモスフィア”を念頭に置くなら、登場人物が周囲に感じる“気配”の変化だといえる。その気配は、最初は郊外全般に対する先入観、郊外をネガティヴにとらえるような意識と結びついているが、最後には身近なもの、離れがたいものへと変わっている。

なぜそんな変化が起こるのか。なにもないように見える郊外も、そこで生活が営まれることによって、基層文化といえるものが育まれていく。その基層文化には、死や夢やフィクション、ありえたかもしれない未来なども含まれる。いくらか極端な表現をするなら、この映画では、錯綜する時間のなかで、基層文化の生成の過程が描かれると同時に、それが民俗学的な視点で掘り下げられていく。だから現実や歴史と夢や伝承の境界が曖昧になっても、そこには確かな場所性が感じられるのだろう。