クラウディア・リョサ 『悲しみのミルク』レビュー



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Review

母親の世界を生きてきたヒロインが自己に目覚め、現実に踏み出すとき

マリオ・バルガス=リョサの姪にあたるクラウディア・リョサ監督の『悲しみのミルク』は、ベッドに横たわる老女が過去の悲痛な体験を歌で物語るところから始まる。彼女はペルーにテロの嵐が吹き荒れる時代に、極左ゲリラ組織に夫の命を奪われ、辱めを受けた。そして、母親の歌にこの映画のヒロインである娘のファウスタがやはり歌でこたえる。だが間もなく母親は息絶えてしまう。

この冒頭の場面は、ヒロインの立場や彼女がどんな世界を生きているのかを暗示している。ファウスタと彼女が厄介になっているおじの一家は、母親が体験した苦しみが母乳を通じて子供に伝わるという“恐乳病”を信じている。母親が心と身体に深い傷を負ったとき、彼女は娘を身ごもっていた。

いまファウスタが暮らしているのは、ゲリラに襲撃された故郷の村ではない。しかし彼女はいまだに母親の記憶の世界を生きている。「いま」と「ここ」を生きてはいない。彼女を支配しているのは恐れだ。たとえ母親が亡くなっても、母娘は恐れを通して繋がっている。だから彼女はひとりで出歩くことができない。恐れや不安を感じるとすぐに鼻血を出す。自分を守るために密かに膣にジャガイモを埋め込んでいる。

もしファウスタがずっとおじ一家を頼っていれば、母親の世界を生きつづけることだろう。だが彼女は母親を故郷の村に埋葬することを望む。そのためには自力で交通費などの費用を捻出しなければならない。彼女は町の裕福な女性ピアニストの屋敷でメイドとして働くことになる。

この映画では、そんな展開を通して「喪」と「自己への目覚め」が重ねられていく。『殯の森』『心の羽根』『ルイーサ』などで言及しているように、喪の映画では、異界が切り拓かれ、他者が現れる。この映画も例外ではない。

ファウスタが働く女性ピアニストの屋敷は異界となり、彼女の前にふたりの他者が現れる。ひとりは雇い主のピアニストで、彼女はスペイン語で話す。もうひとりは屋敷に出入りする庭師のノエ。ファウスタと母親は先住民の言葉であるケチュア語で繋がっていたが、ノエもまたケチュア語で語りかけてくる。

ファウスタはノエに親近感を覚えるが、恐れが消え去ることはない。だが、ある出来事によって彼女が変化する。スランプに陥っていたピアニストが、ファウスタが口ずさむ歌に関心を持ち、ほどけたネックレスの真珠を一粒ずつ差し出すかわりに、彼女に歌を歌わせる。

ファウスタはこれまで母親の世界におびえていただけで、自身で喪失の痛みを経験したことがない。そんな彼女は、大切な歌を、その意味も理解されることなく奪われることではじめて喪失を体験し、打ちのめされる。その結果、ファウスタ自身としてノエという他者に心を開く。そして、「いま」と「ここ」から母親を送ることになる。

クラウディア・リョサ監督は、女性ならではの感性と寓意に満ちた物語を通して、ペルーの過去と現在を実に鮮やかに描き出している。

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