リウ・ジエ 『再生の朝に ―ある裁判官の選択―』レビュー



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Review

死刑判決から処刑までの時間が喪に服すための異界となり、裁判官は死を通して生に目覚める

リウ・ジエ監督の『再生の朝に ―ある裁判官の選択―』は、中国で実際に車2台の窃盗で死刑になった青年のニュースや1997年の刑法改正にインスパイアされて作られた作品だ。

1997年、中国の河北省涿州市を舞台にしたこの映画には、立場の異なる三組の人物たちが登場し、複雑に絡み合っていく。

ベテランの裁判官ティエンは、娘を盗難車による轢き逃げで亡くして以来、無為に日々を送っている。彼の妻は飼いだした犬で気を紛らそうとするが、深い哀しみが癒えることはない。

貧しい家庭に生きる青年チウ・ウーは、車2台の窃盗で裁判にかけられ、死刑を宣告される。その判決は、ティエンを含む裁判委員会の合議で決定されたもので、チウ・ウーに判決を言い渡したのは、裁判官のティエンだった。

一方、地元の有力者リー社長は、腎臓病を患い、ドナーを探していた。チウ・ウーの腎臓が自分と適合すると知った彼は、金にものをいわせて家族を説得し、死刑の執行日を早めるように裁判所に圧力をかける。チウ・ウーは、家族に金を残すために臓器提供に同意する。

この映画の登場人物はいずれも寡黙であり、私たちは彼らの行動からその心情を想像することになる。

ティエンの娘の轢き逃げ事件は、彼が関わった裁判の判決に恨みを持つ者の仕業という可能性もあったが、彼は沈黙を守り、捜査に協力しようとはしない。チウ・ウーは車2台の窃盗で捕まったが、そうした犯罪から生まれる盗難車の1台がティエンの娘の命を奪ったことになる。リー社長は裁判所を動かすためにまず車2台の寄付を申し出るが、それはチウ・ウーが盗んだ2台の車と呼応しているといえる。

リウ・ジエ監督は、車を通してこの3者を関連づけるが、あえて彼らの内面には踏み込もうとしない。一方で、車2台を盗んだ青年に死刑を言い渡し、一方で、リー社長の代理人から裁判所に車2台を寄付すると伝えられるティエンが心のなかで何を思うのか、何も思わないのかは、私たちの想像に委ねられている。

またこの3者の生活には、印象的なコントラストがある。ふさぎ込むティエンの妻は、食事の用意もしなくなった。ティエンがその代わりに食事を作るが、夫婦のあいだに会話はなく、食も進まない。刑務所のなかのチウ・ウーは、食事も睡眠もとろうとしない。それは最初は抵抗に近いが、やがて食事も睡眠も必要ないという絶望に変わっていく。

これに対して、リー社長と彼のフィアンセの生活については、(おそらく意識してのことだろうが)食事の場面がまったく描かれない。その代わりに、シャワーとベッドの場面が描かれる。この男女の関係は親密であるはずだが、その生活はどこか寒々しい空気が漂っている。

この映画には、改革開放政策以後の中国社会、貧富の格差、見せしめとしての刑罰など、様々な社会問題が盛り込まれているが、リウ・ジエ監督は社会派作品のようにそれを前面に押し出そうとはしない。説明的な台詞に頼ることなく、3者のコントラストをさり気なく描き出し、それを表現しているところに、この監督のセンスが表われている。

しかし、もっと興味深いのは、この作品をティエンの物語としてみた場合に、筆者がこだわる“喪”の映画になっていることだ(たとえば、『心の羽根』『殯の森』『ルイーサ』『クリスマス・ストーリー』『ヘヴンズ ストーリー』『ブローン・アパート』など)。

ティエンは、娘を亡くしてから抜け殻になったように生きている。彼も妻もいまだ本当の意味で喪に服すことができない。そんなティエンにとって、チウ・ウーに死刑の判決を言い渡してから、彼の処刑と真正面から向き合うまでの時間は、喪に服すための異界を形作っている。ティエンはこの異界のなかで、チウ・ウーという他者と出会い、臓器提供を承諾するこの他者を通して死を身近なものとし、生に目覚め、大いなる決断を下す。そして喪が明けたとき、夫婦の食卓は以前とは違ったものになっている。

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