ミシェル・ゴンドリー 『ムード・インディゴ~うたかたの日々~』 レビュー

Review

ヴィアンの『うたかたの日々』のイマジネーションと残酷さをめぐって

『ウィ・アンド・アイ』につづくミシェル・ゴンドリーの新作は、夭逝の作家ボリス・ヴィアンの悲痛な恋愛小説『うたかたの日々』の映画化だ。プレスのインタビューでゴンドリーは、原作を最初に読んだ時期について、「10代の頃だね。兄が最初に読んで、僕たち弟に薦めたんだ。間違いなく兄は『墓に唾をかけろ』とか、ボリス・ヴィアンがヴァーノン・サリバン名義で書いた、もっとエロティックな小説から読み始めたはずだね」と語っている。その昔、筆者もヴァーノン・サリバン名義のものから読み出したような気がする。

『ムード・インディゴ~うたかたの日々~』の舞台はパリで、時代背景は曖昧にされている。それなりの財産に恵まれ、働かなくても食べていける若者コランは、パーティで出会った美しいクロエと恋に落ちる。ふたりは、友人たちに祝福され盛大な結婚式を挙げるが、やがてクロエが、肺のなかに睡蓮が生長する奇妙な病におかされていることがわかる。その治療のために財産を使い果たしたコランは、働きだすが、彼らの世界は徐々に光と精気を失い、荒廃していく。


この映画では、演奏に応じて様々なカクテルを作るピアノ、水道管から顔を出して食材になるウナギ、恋人たちを運ぶ雲、壁から飛び出してくる呼び鈴、言葉がわかるネズミ、人体に温もりによって真っ直ぐに育つ銃身、縮んでいく部屋など、ヴィアンの奇想の産物が見事に映像に翻訳されている。

そうしたイマジネーションについては、確かに原作と共鳴している。だが、これはやはり『うたかたの日々』の世界とは違うのではないか。おそらくゴンドリーは優しすぎるのだろう。原作にある残酷さがかなり薄められているように見える。

たとえば、新婚旅行の場面だ。コランとクロエの薔薇色の世界は、結婚の直後から崩壊の予兆があらわれている。彼らは光を浴びて旅するはずが、太陽のコースを外れ、銅山に紛れ込む。そこでは気密式のつなぎ服を着た何百という人々が働き、荒涼とした光景が広がっている。

映画では、車のなかから鉱山らしき風景が見えるだけで次の場面へと移行してしまうが、原作では銅山において以下のようなやりとりがある。

 何人かの男たちが足を止めて車が通り過ぎるのを眺めていた。その目に浮かんでいるのはさげすむような憐れみの色ばかりだった。肩幅の広い、屈強な男たちで、何があってもびくともしない様子だった。
「あの人たち、わたしたちのことが好きじゃないんだわ」クロエがいった。「早くここから出ましょうよ」
「あの人たちは働いているんだ……」コランがいった。
「そんなの理由にならないわ」クロエがいった。
(中略)
「でも、働くのは立派なことなんだって考えているのは、あの人たちが悪いのかしら?」「そうじゃない。彼らが悪いわけじゃない。それは彼らが、労働は神聖で、善なる、美しいものであり、何よりも大事なもので、働く者だけがあらゆる権利を有するのだと吹き込まれているせいなんだ。ただし、連中はとにかく四六時中、働いていなければならないようになっているから、楽しむわけにはいかないんだよ」
「ということは、あの人たちはばかなのかしら」
「そうさ、ばかなのさ。だからこそ連中は、労働こそ最高のものなりと信じ込まされているんだ。そうすれば自分の頭で考えずにすむし、社会を進歩させて、仕事をしなくていいようにする必要もないからね」
「何か別のお話をしましょう」とクロエはいった。「もううんざりだわ、こういう話題は。ねえ、わたしの髪は好き?……」

これは暗い予兆といえる。そして、そのあとで悲劇の源となる睡蓮の種がクロエの肺に植えつけられることになる。

このような場面を素通りしてしまうと、コランとクロエのキャラクターがぶれてしまうだろう。彼らは何を求めているのか。それは原作の「まえがき」で示唆されている。「大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから

彼らは醜いものは見たくない。美しいものだけを求める。しかし、そんなクロエの肺に、おそらくは美しいものであるはずの睡蓮が芽吹き、彼女を苦しめる。その睡蓮を脅しつけるために、彼女のまわりにいつも花を絶やさないようにという医者の指示も、皮肉まじりの奇想といえる。そしてコランは、治療費を捻出するために嫌悪する労働を余儀なくされる。

コランはデューク・エリントンを敬愛し、映画には、オーガスト・ダーネルがエリントン役で登場し、<A列車で行こう>や<クロエ>が流れる。そのエリントンは、「この世には二種類の音楽しかない。良い音楽とそうでない音楽だ」と言った。その言葉は、コランの二分法に重なるようにも見えるが、エリントンが生み出した良い音楽には、黒人であることの実存が滲んでいる。

ヴィアンはそれを承知で、エリントンを絡めたこの皮肉で悲痛な物語を書いたはずであり、残酷さこそが物語を忘れがたいものにする。それに比べると、ゴンドリーの映画は残酷さよりもイマジネーションが先行し、よりファンタジックな印象を与える。

《引用文献》
●『うたかたの日々』ボリス・ヴィアン 野崎歓訳(光文社古典新訳文庫、2011年)