ジェームズ・マーシュ 『シャドー・ダンサー』 レビュー

Review

男同士のホモソーシャルな連帯と女たちの孤独と心の痛み

ジェームズ・マーシュ監督の『シャドー・ダンサー』の舞台は、1993年の北アイルランドとロンドンだが、その前に70年代前半に起こった悲劇を描くプロローグがある。当時まだ子供だったヒロインのコレットは、弟を喪うという悲劇によってIRAの一員として前線に立つことを宿命づけられる。

1993年、息子を育てる母親でもあるコレットは、ロンドンの地下鉄爆破未遂事件の容疑者として拘束される。そして彼女の前に現れたMI5(イギリス諜報局保安部)の捜査官マックから、息子と引き離された刑務所生活を送るか、内通者になるかの二者択一を迫られる。

コレットは悩みぬいた末に息子との生活を選ぶ。だが、マックは上司であるケイトの振る舞いに不自然なところがあるのに気づき、探っていくうちに、自分とコレットが難しい立場に立たされていることを悟る。ケイトと上層部は、すでに別の内通者“シャドー・ダンサー”を抱えていて、その人物を守るためにコレットをスケープゴートにしようとしていた。

監督のジェームズ・マーシュは、プレスでは『マン・オン・ワイヤー』が代表作として強調されているようだが、筆者にはなんといっても『キング 罪の王』だ。


テキサス南部の町を舞台にしたこの映画では、ボーン・アゲイン・クリスチャンの信仰で結ばれた家族の前に、ある日、もうひとりの息子が現れる。その若者エルヴィスは、一家の主である牧師デヴィッドが、信仰に目覚める前に犯した罪から生まれた子供だった。そして、結束しているように見えた家族は、そんなエルヴィスに翻弄されていく。

『キング 罪の王』と『シャドー・ダンサー』の背景はまったく違うように見えるが、実は興味深い接点がある。『キング 罪の王』でマーシュが強い関心を持っていたのは、マチズモ(男性優位主義)、あるいは男同士のホモソーシャルな関係だった。それを象徴しているのが“狩猟”だ(ちなみに、トマス・ヴィンターベア監督の新作『偽りなき者』でも同じように狩猟が象徴となっている)。

デヴィッドと息子のポールは、信仰だけでなく弓を使った鹿狩りでも結ばれている。と同時に、狩猟は家族の女たちが抑圧されていることも示唆する。男たちがガレージで獲物の鹿をさばいたあとで、垂れ流された血を洗い流すのは娘のマレリーの役目だった。

そのマレリーがエルヴィスに誘惑され、深入りしていくのは、決して若さのせいだけではない。一方、エルヴィスのことを警戒していたデヴィッドも、狩猟で男らしさを確認すると、彼をあっさりと受け入れてしまう。つまり、家族を追い詰めるのは、ホモソーシャルな関係や抑圧なのだ。

では、この『シャドー・ダンサー』の場合はどうか。映画のプロローグでは、父親から買い物を頼まれたコレットが、それに従わず代わりに弟を行かせ、彼が紛争の流れ弾の犠牲になってしまう。

母親となったコレットは、その罪悪感を拭い去ることができない。MI5のマックはそんな彼女に、弟の検視調書を見せる。その記録は、弟の命を奪ったのがIRAの流れ弾であることを物語っていた。

なぜコレットは内通者になるのか。もちろん、息子と離れたくないという気持ちもある。調書の事実が影響を及ぼしていることも間違いない。しかし、それだけであれば筆者はこの映画にそれほど興味を覚えなかっただろう。

70年代前半といえば、IRAが平和的解決か武力闘争かをめぐって分裂し、北アイルランドでは武力闘争を主張する暫定派が多数を占めた時期にあたる。そうした背景を考えれば、このような事件を暫定派が利用しようとしたとしても不思議ではない。

注目すべき点は別のところにある。プロローグで最も印象に残るのは、弟が死んだあとで、コレットを無言で睨みつける父親と、その眼差しに怯える彼女の姿だ。それはなにを物語っているのか。アイルランドが伝統的に家父長制の根強い世界であることを考えるなら、死んだのが息子で、自分が娘であることが彼女に重くのしかかっていることは容易に察することができる。

そのことを踏まえれば、『キング 罪の王』と『シャドー・ダンサー』は状況がまったく違うにもかかわらず、デヴィッドの一家とエルヴィス、コレットの一家とマックには共通する図式があることに気づくはずだ。

『シャドー・ダンサー』に登場するアイルランド人の女性たちは、伝統的な家父長制とIRAのホモソーシャルな連帯関係という二重の抑圧に苦しめられている。そして、そんな孤独と心の痛みが予想もしないラストを招きよせることになる。