アブデラティフ・ケシシュ 『アデル、ブルーは熱い色』 レビュー

Review

階層と成長期に培われる価値観、食と集団をめぐるドラマに見るケシシュの世界

カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いたアブデラティフ・ケシシュ監督の『アデル、ブルーは熱い色』は3時間の長編だが、物語そのものはシンプルだ。

高校生のアデルは、道ですれ違ったブルーの髪の女に一瞬で心を奪われる。再会を果たした彼女は、画家を目指す美学生エマにのめり込んでいく。数年後、夢を叶えて幼稚園の先生になったアデルは、画家になったエマのモデルをつとめながら彼女と生活を共にしているが、やがて破局が訪れる。

チュニジアで生まれ、南仏ニースで育ったケシシュは、マグレブ系移民を作品に登場させても、国家や文化をめぐる単純な二元論に落とし込むのではなく、共通性を掘り下げ、より普遍的な世界を切り拓いてきた。

そうした姿勢は、新作にも引き継がれている。独自の美学に貫かれたラブシーンが鮮烈な印象を残す“ガール・ミーツ・ガール”の物語ではあるが、同性愛がテーマになっているわけではない。


たとえば、ケシシュの代表作『クスクス粒の秘密』では、大家族が集う食事会や船上レストランにおけるパーティが、老いた移民労働者と彼の愛人の娘の立場や心情を見事に物語っていたように、新作でも食と集団をめぐるドラマがアデルという存在を浮き彫りにしていく。

恋に落ちたアデルとエマの世界の違いは、双方の実家で両親と食事をし、そこに泊まるときに明らかになる。

リベラルな教養人であるエマの母親と義父は暗黙のうちに彼女たちを恋人同士として迎え、新鮮な蛎とワインでもてなし、創造性を礼賛する。労働者であるアデルの父親と母親は、堅実をモットーとし、鍋に盛られたボロネーゼでもてなす。当然、アデルの実家でセックスするときには、喘ぎ声を押し殺さなければならない。

そんなコントラストは未来を暗示していたともいえる。アデルは幼稚園の先生として輝いているが、職場ではエマとの関係を秘密にしている。エマの友人たちを招いたパーティで、料理に腕を振るい、ボロネーゼでもてなすアデルは、芸術家やインテリの集団のなかで孤立している。そして創造性のために新たな関係を求めるエマとの間に亀裂が生じる。

そういう意味では、このドラマは同性愛よりも成長期に培われる価値観や階層に深く関わっている。

ケシシュは『クスクス粒の秘密』や『黒いヴィーナス』のラストで、引き裂かれる痛みを受け止めるヒロインの身体を凝視した。この映画を締め括る画廊のパーティで、アデルがどんな痛みを受け止めているのかは、観客の想像に委ねられている。

(初出:「CDジャーナル」2014年4月号、若干の加筆)