ミヒャエル・ハネケ 『愛、アムール』 レビュー

Review

“時間の芸術”の王国を去る――ハネケの厳格さと豊かな想像力が集約された美しい結末

ミヒャエル・ハネケの新作『愛、アムール』の主人公であるジョルジュとアンヌは、ともに音楽家の老夫婦だ。ふたりはときに教え子たちのリサイタルに足を運び、音楽を引き継いだ娘夫婦や孫の成長を見守り、悠々自適の老後を過ごしている。

だが、ある日突然、アンヌが病の発作に見舞われ、手術も失敗に終わる。彼女は不自由な身体になり、着実に衰弱していく。ジョルジュは、「二度と病院に戻さないで」というアンヌの願いを聞き入れ、妻を献身的に支えようとする。

この映画には注目すべき点がふたつある。ハネケ作品の登場人物は、制度やそれに類する見えない力に規定されている。

たとえば、『ピアニスト』(01)のヒロイン、ピアノ教授のエリカの場合は、クラシック音楽の伝統や制度だ。ハネケはそこに男性優位主義が潜んでいると見る。だから彼女は精神的には男であり、その倒錯的な行動からわかるように欲望を規定されている。

『隠された記憶』
(05)の主人公、書評番組のキャスター、ジョルジュの場合は、とりあえず“編集”といえる。この映画では、番組のセットと彼の自宅の居間がダブって見える。彼の人生もまた、番組と同じように巧妙に編集され、それが辛い記憶の忘却を可能にしている。


『白いリボン』(09)では、抑圧された子供たちの感情が“反カトリック”の闘争と結びつき、彼らがナチスに追随していく基盤が醸成される。

登場人物を規定する制度と彼らの個人的な感情の間に生じる軋みのようなものを、完璧にモラルを無視して冷徹に描き出すことによって、ハネケは異彩を放つ。

では、ジョルジュとアンヌの老夫婦はなにに規定されているのか。それが一点だ。

そしてもう一点は、この作品の独特の構成だ。映画はドラマの結末から始まる。鍵のかかったアパルトマンの扉がこじ開けられ、警官や消防団と思われる人々が屋内を捜索し、ベッドに横たわる老女の遺体を発見する。

そこから時間を遡り、描き出されていく老夫婦のドラマでは、アパルトマンの扉や窓を通して、外部と内部の空気の違いが強調されていく。

このふたつの要素は密接に結びつき、ハネケならではの世界を構築していく。ドラマは、老夫婦がアンヌの愛弟子であるピアニスト、アレクサンドルの演奏会に足を運び、満ち足りた時間を過ごして帰途に着くところから始まる。ところが、帰宅してみると、物取りの仕業なのか、何者かによって扉がこじ開けられている。アンヌは不安になるが、ジョルジュは演奏会の余韻を壊したくないため、それを軽く受け流し、ふたりは眠りにつく。

この老夫婦を規定しているのはもちろん音楽だ。彼らが暮らすアパルトマンの居間には、その象徴であるかのようにグランドピアノがでんと構えている。時間の流れのなかに音を組み上げる音楽は“時間の芸術”といわれる。このアパルトマンはそんな時間の芸術の王国であり、老夫婦はたとえ現役を退いていてもこの空間のなかでそういう時間を生きている。

アンヌが発病するまでは、王国を脅かすものがいるとすればそれは外から侵入してくるはずだった。しかし、彼女の発病によって内から崩れようとしている。という位置づけはあまりに単純すぎるだろう。実際には音楽を通した営みが蓄積された空間もグランドピアノも微動だにしない。王国は揺るがない。そのことこそが、ジョルジュを精神的に追い詰めるといえる。

ジョルジュは、アンヌの愛弟子であるアレクサンドルや娘のエヴァの来訪を怖れるようになる。たとえアンヌを見舞うだけではあっても、彼らは音楽に規定されているからだ。その一方で彼は、衰弱していくアンヌを王国のなかで隔離しようとする。アレクサンドルのCDを聴きながら、ピアノを弾くアンヌを幻視するジョルジュもまた、王国のなかで引き裂かれようとしているのだ。

そこでこの映画の構成が生きてくることになる。だが、そこに話を進める前に確認しておきたいことがある。筆者は、老いと死を題材にした作品が、あくまで現実に留まってしまうのか、幻想の領域にまで踏み出すのかに強い関心を持っている。

たとえば、ジョン・マッデン監督の『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』は、いくらキャストが素晴らしい演技を披露していても、題材に対する想像力に欠けていると思う。老人も現実のなかに生きがいを見出さなければならないような価値観に縛られているからだ。

もちろん闇雲に妄想に踏み出せばいいというものではない。現実も感嘆にはそれを許さないだろう。だが、映画は現実の奴隷ではない。だから、ダン・アイアランド監督の『クレアモントホテル』やステファン・ロブラン監督の『みんなで一緒に暮らしたら』など、独自の視点から幻想に至る作品には豊かな想像力を感じる。

そういう意味で、非常に厳格な作家であるハネケが、この題材をどう処理するのかには大いに注目していた。そして、素晴らしいと思った。

この映画の構成、アパルトマンの扉がこじ開けられるところから始まり、ジョルジュを脅かす来訪が繰り返されるドラマはすべて、最後に王国を去ることを際立たせるためにある。重要なのは、なにを王国に残し、どのように去っていくのかということだ。そこにハネケの厳格さと豊かな想像力が集約され、純粋で美しい結末が紡ぎ出される。

冒頭で発見される老女の遺体はなにを象徴しているのか。おそらく、『ピアニスト』のラストがヒントになるだろう。エリカはコンサートホールのロビーで、自分の胸部をナイフで突き、そしてホールをあとにする。それは彼女のなかのピアニスト=男性の死を象徴していた。