ニコラウス・ゲイハルター 『プリピャチ』 レビュー

Review

人類の未来をめぐる大きな物語の礎となるような日常の断片

ニコラウス・ゲイハルター監督の『プリピャチ』(99)では、チェルノブイリ原発事故から12年が経過した時点で、立ち入りが禁じられた“ゾーン”に暮らしていたり、あるいはそこで働いている人々の姿が映し出される。この映画から見えてくる世界の意味を明らかにするためには、ゾーンの外側に広がる世界と内側の世界で、どのように12年という時間が流れていたのかを確認しておくべきだろう。

この映画の製作年である99年から振り返ってみたとき、最も大きな事件は、ソ連の崩壊と冷戦の終結だといえる。そこから世界は変わった。ポストモダンという言葉がもてはやされ、歴史や人類の普遍の未来を語る大きな物語は終わりを告げ、ひとつの共通する世界が失われた。そういう認識が浸透していった。

政治学者のジョン・グレイは『グローバリズムという妄想』のなかで、後期近代資本主義は「人間を断片化された現実と意味のない選択の氾濫の中に放り出す」と書いている。確かに、情報の洪水のなかで近代の確実性は破壊され、大きな物語は失われたかに見えた。


では、ゾーンの内側ではどのような時間が流れていたのか。『プリピャチ』の世界には、ソ連の崩壊と冷戦の終結という分岐点など存在しないように見える。

この映画を観ながら筆者が最初に想起したのは、メアリー・マイシオの『チェルノブイリの森』のことだった。ウクライナ系アメリカ人のジャーナリストである彼女は、たびたびゾーンを訪れ、その体験を本書にまとめた。そのなかには、ゾーンについて以下のような記述がある。

事故後の数年間、ゾーンはモスクワが直接管理し、ソ連各地から専門家が送りこまれ、ロシア語が共通語になった。一九九一年の初めにウクライナとベラルーシの共和国がそれぞれの領土にあるゾーンの法律上の管理を引き継いだあとも、それは変わっていない。ウクライナは原子力発電所と廃棄物のごみ捨て場を含む三〇キロゾーンの半分以上を受け入れ、「ゾーナ・ヴィデュジェンニヤ(居住禁止区域)」と名づけた。その夏ソヴィエト連邦が崩壊しても、名称はそのまま残る

残っているものは名称だけではない。ゾーンの内側は、建物から標語までほとんどソ連の時代のまま朽ち果てつつある。環境研究所の職員であるジナイーダが、荒れ果てたかつての我が家を訪れる場面では、冷戦以後もソ連も意味を失う。彼女は、断片化された現実ではなくもっと大きな力と向き合い、ゾーンのなかで仕事を続けている。

『チェルノブイリの森』にはこんな記述もある。

モスクワ政府はチェルノブイリ原子力発電所を手放すつもりなどさらさらなかった。発電所はソ連の原子力発電量の十五パーセントを担い、おもにハンガリー向けのエネルギー輸出の八〇パーセント以上を負っていた。たしかに、発電所の運転継続を主張したソ連政府のかたくなな態度は、一九九一年のウクライナの独立運動に拍車をかけた問題のひとつだった。とはいえ、独立国家のロシアが化石燃料の供給に関するエネルギー法案を独立国家のウクライナに示すと、チェルノブイリ原発の運転はウクライナ政府にとってもそれほど悪い話と思えず、政府は発電所の運転を継続し、西側諸国から圧力がかけられて二〇〇〇年にようやく閉鎖した

この映画は、閉鎖される2年前の原発3号機内部の光景をとらえている。だが、そこで働く技術者のニコライにとっても、そんな国同士の事情や取引はあまり意味がない。彼もまた、不満を抱えながらも、より大きな力と向き合っているからだ。

さらに、オリガとアンドレイの老夫婦にも注目すべきだろう。ジナイーダがプリピャチの街と繋がっていたように、彼らはプリピャチという川と繋がっている。二人は事故の後に一度は移住をしたが、93年に故郷に戻り、ずっとそこで暮らしている。彼らにとって重要なのは、自分たちを育み、恩恵をもたらした川であり、そのために大きな力と向き合って生きる道を選択した。

ゲイハルター監督は、ゾーンの現実を、特別な瞬間や体験としてではなく、日常のなかにある個人と環境の関係として描き出していく。それは、彼らが置かれた状況が、いつ誰にでも起こりうることを示唆している。

実は筆者が、冒頭でゾーンの外と内の時間を対比してみたのは、そんな監督の視点が、文化理論を専門にする研究者ジョージ・マイアソンの『エコロジーとポストモダンの終焉』に通じるものがあるように思えたからだ。

マイアソンは、エコロジーが近代に終止符を打つようなものではなく、未来へ向かう新しい近代的な躍進の契機になると考える。そのキーワードになるのは“リスク”だ。「現代社会は、エコロジー的にみて有害な生活様式をもっていて、それに対して「罰を受けることなく」過ごせるかどうかの計画的ギャンブルを実践している」。そんなリスク社会に対してエコロジーは大きな物語を生み出す。

ゲイハルター監督がこの映画で切り取っているのは、人類の未来や自然やテクノロジーをめぐる大きな物語の礎になるような日常の断片といえるだろう。

(初出:『プリピャチ』劇場用パンフレット、若干の加筆)

《参照/引用文献》
●『グローバリズムという妄想』ジョン・グレイ 石塚雅彦訳(日本経済新聞社、1999年)
●『チェルノブイリの森 事故後20年の自然誌』メアリー・マイシオ 中尾ゆかり訳(NHK出版、2007年)
●『エコロジーとポストモダンの終焉』ジョージ・マイアソン 野田三貴訳(岩波書店、2007年)

▼2012年2月公開予定のミハル・ボガニム監督の『故郷よ』は、原発事故発生時とその10年後のプリチャピを舞台にしたドラマであり、『プリピャチ』と重なるところがある。