ジム・シェリダン 『ドリームハウス』 レビュー

Review

「夢」と「狂気」と「作話」の結びつきが意味するものとは…

ジム・シェリダンが『マイ・ブラザー』につづいて監督した『ドリームハウス』は、有能な編集者ウィル・エイテンテンが長年勤めた会社を去るところから始まる。彼は購入したばかりのマイホームで小説を書きながら、妻と二人の娘たちとともに過ごす決意をした。しかしそのマイホームでは、外から男が室内を覗き込んでいたり、少年少女たちが地下室に忍び込んで、怪しげな儀式を行うなど、奇妙な出来事がつづく。

やがて不吉な事実が明らかになる。5年前にその家で殺人事件が起きていた。母子三人が殺害され、頭部を撃たれた父親に容疑がかけられた。その父親は事件後に精神を病み、施設に入所していたが、現在は行方不明になっていた。

この映画は、サイコスリラー的な要素が強い前半とヒューマンドラマ的な要素が際立つ後半に大きく分けることができる。そんな構成で描かれる物語が受け入れられるかどうかは、前半の先の読めない展開がどう解釈されるかにかかっているといえる。


それが単なるトリッキーな仕掛けとみなされれば、映画全体が安っぽくなってしまうはずだが、どうもその可能性が高いように思える。

筆者は映画を観ながら、三つのことに興味を覚えた。まず、タイトルにもなっている“夢”だ。それは夢のマイホームを意味するためだけのものではないだろう。この映画では、夢の領域が意識されている。二つ目は、5年前の事件で頭を撃たれた父親が精神を病み、施設で治療を受けていたこと。そしてもう一つは、主人公のウィルが小説を書いているということだ。

この三つの要素から思い出すのは、夢と睡眠研究の第一人者といわれるJ・アラン・ホブソンが書いた『夢に迷う脳』のことだ。本書では、夢と精神錯乱に共通する特徴(具体的には、幻覚、失見当識、近時記憶障害、作話、情動の過剰な高揚など)が、脳の器質的な変化から生じることが明らかにされる。

そこから、いま挙げた三つの要素に関わりのありそうな記述をいくつか引用してみたい。

夢と狂気の間にどのような違いがあるのだろうか? 夢を見ている時の私の体験と、精神疾患や認知症、気が触れている人の覚醒時の経験とは、いったい何が異なるのか? 経験の質という観点からすれば、両者に違いはない

夢を見ている時、私たちは精神疾患者の心脳(※心と脳のユニットを意味するホブソンの造語)状態を体験しているわけである。不運なことに、精神疾患者はいつでも「鬼」役になって、その場にいない何かを探している。そして自分が悪夢にとらわれてしまっていることにしばしば自覚を持たない。もっと厳しい言い方をすると、夢を見るとは、心脳にやがて生じる老化や衰退という一種の精神錯乱を、前もって体験していることなのだ

さらにホブソンは夢を見ているときの自分の状態について以下のように書いている。

私は作話をしていた――つまり、幻覚、妄想、感情、錯乱した分析能力をまとめようとして、自分自身に物語を語り聞かせていた

こうしたことを踏まえるなら、この映画の前半を占めるサイコスリラー的な要素は、単にトリッキーなだけの仕掛けとはいえなくなる。そして、夢と狂気と作話は、映画という表現との相性もいい。脚本を手掛けたデヴィッド・ルーカと監督のシェリダンは、それを生かして独自の世界を構築している。

この映画では、夢と狂気が最後には消え去り、作話の結晶だけが残ることになる。

《参照/引用文献》
●『夢に迷う脳 夜ごと心はどこへ行く?』J・アラン・ホブソン (池谷裕二・監訳/池谷香・訳/朝日出版社/2007年)