イエジー・スコリモフスキ 『エッセンシャル・キリング』 レビュー
故郷喪失者はどこでもない場所で、動物性への帰郷を果たす
17年ぶりに監督した『アンナと過ごした4日間』(08)で見事な復活を遂げたポーランドの鬼才イエジー・スコリモフスキ。待望の新作はアフガニスタンにおける戦闘から始まり、最初は9・11以後のテロとの戦いを描く作品のように見える。
バズーカ砲で米兵を吹き飛ばした主人公は、米軍に拘束されて捕虜になり、拷問を受け、軍用機と護送車で移送される。ところが、深夜の山道で事故が起き、彼だけが逃走する。
この逃亡劇によって映画の世界は大きく変化していく。そんな流れは筆者に、ジム・ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』を想起させる。この映画の三部構成は実によくできていた。
一部ではニューオーリンズという舞台が明確にされているが、二部の刑務所という空間では場所性が失われる。そして主人公が脱獄すると、そこは場所や時間を特定するような情報や記号が見当たらない、「どこでもない場所」になっている。
『エッセンシャル・キリング』の場合は三部に分かれているわけではないが、スコリモフスキは同じ話術を巧みに使いこなしている。最初はアフガニスタン(実際に撮影されたのはイスラエルだが)という舞台が明確にされているが、捕虜になり、目隠しをされて移送されることで場所性が確実に失われていく。そして逃走した彼が彷徨う雪深い森には場所を特定するような情報も記号もなく、「どこでもない場所」が広がっている。
ただし、ジャームッシュとスコリモフスキでは、そういう表現をたぐり寄せる動機が違う。ビートニクに多大な影響を受けたジャームッシュの場合は、主人公たちが場所や時間から解放されることで、表層的なアメリカの外に踏み出すことを示唆する。
スコリモフスキの場合は、そこに切り拓かれる世界だけを見れば、とりあえずラース・フォン・トリアーの『アンチクライスト』にかなり近いといえる。『アンチクライスト』に登場する「彼」は、鹿や狐や鴉という動物に導かれるように、歴史の外部へと踏み出し、動物性への帰郷を果たす。
『エッセンシャル・キリング』の主人公も、逃亡のなかで人間から動物に近づいていく。彼はこの映画のなかで最初から最後まで83分間、叫び声を除くとまったく台詞を口にしない。逃亡した捕虜を追う米軍はテロとの戦いをつづけているが、主人公にとっては遭遇するのが米軍でも製材業者でも違いはない。彼は生き残るために殺し、蟻や樹皮を食べて飢えをしのぐ。
主人公の前には美しく過酷な自然が広がり、野性の動物たちが瞬間を生きている。そして、彼も、人間ではなく動物と、歴史ではなく瞬間を共有するようになる。言語を媒介に成り立つ世界から解き放たれた彼は、どこでもない空間のなかで自己の内奥へと向かい、動物性への帰郷を果たすように見える。
そんな主人公の姿には、監督自身が投影されているに違いない。スコリモフスキは60年代に映画でスターリン批判をしたとされて国を追われ、故郷を喪失したディアスポラとしてヨーロッパやアメリカなどを転々としてきた。そして、いまはポーランドに戻って映画を作っているものの、そこに故郷を見出しているわけではない。
現在のスコリモフスキにとって故郷といえるものは、過去や歴史ではなく瞬間のなかにあるのだろう。
※『バッファロー’66』のヴィンセント・ギャロが極限の状況下で野性化していく主人公を演じきり、ヴェネチア国際映画祭で最優秀男優賞を受賞。イスラエル、ポーランド、ノルウェーで撮影された風景にも目を奪われる。
(初出:月刊「宝島」2011年7月号、若干の加筆)
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