河瀨直美 『朱花の月』 レビュー



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Review

万葉の精神と響き合い、純粋な「瞬間」に目覚めていくヒロイン

河瀨直美監督の『朱花の月』の舞台は、大和三山や藤原宮跡があり、古代の記憶が宿る飛鳥地方だ。この映画には、その記憶の断片ともいえる万葉集の歌が挿入される。

大和三山を男女に見立てた中大兄皇子の歌は、こんな意味になる。「香具山は畝傍山が愛おしい/奪われたくないから耳成山と争う/遠い昔もそうだった/そして今の世でも争うのだ」

この映画のヒロインは、万葉集に出てくる朱花(はねづ)の色に魅せられた染色家の加夜子。これまで地元PR紙の編集者・哲也と長年一緒に暮らしてきた彼女は、かつての同級生で木工作家の拓未と再会し、いつしか愛し合うようになっていた。


そんな三者の関係は、加夜子が妊娠したことから揺らいでいく。また一方では、彼らと対置するように、加夜子の祖母・妙子と拓未の祖父・久雄をめぐる戦前の物語が浮かび上がってくる。

中大兄皇子が大和三山になぞらえた男女と現在や過去の男女を重ねれば、この映画には、いつの世も変わらない人の想いや営みが描き出されていることになる。しかし、映画の細部はもっと多くのことを示唆している。筆者にはヒロインがこれまでにない感覚に目覚めていくように見える。

たとえば、日と月の関係は、三浦茂久の『古代日本の月信仰と再生思想』のことを思い出させる。『記紀』では日神が優位に立っているのに、『万葉集』などでは日には比較的冷淡で、月が非常に多く詠われているのはなぜなのか。本書ではそんな関心から、太陽信仰に基づく日本の古代の世界が月信仰から見直されていく。

この映画では、日に照らされた藤原宮跡という形ある歴史と、タイトルにある「月」やヒロインの名前にある「夜」が対置され、隠れた文化の基層に目を向けようとする。

そして、もうひとつ筆者が思い出したのが、和辻哲郎の『日本精神史研究』に収められた「『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について」のことだ。

『万葉集』の歌人は、直感的に自然と向き合い、「瞬間の情緒」を告白するのに対して、『古今集』の歌人は、「情緒の過程」、つまり瞬間ではなく前後関係に縛られ、情緒の歴史としての物語に引かれていく。

私たちの世界や感性は明らかにその延長線上にあるが、この映画のヒロインは、万葉の精神と響き合い、純粋な「瞬間」に目覚めていくのだ。

《参照・引用文献》
●『古代日本の月信仰と再生思想』三浦茂久(作品社、2008年)
●『日本精神史研究』和辻哲郎(岩波文庫、1992年)

※現代における「瞬間」の意味と重要性については、想田和弘監督の『Peace』『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』、イエジー・スコリモフスキ監督の『エッセンシャル・キリング』、内田伸輝監督の『ふゆの獣』、ラース・フォン・トリアー監督の『アンチクライスト』、マーク・ローランズの『哲学者とオオカミ』、渡辺哲夫の『祝祭性と狂気 故郷なき郷愁のゆくえ』などでも言及しておりますので、興味がおありの方はそちらもお読みください。

(初出:「CDジャーナル」2011年9月号)

《河瀨直美監督作品・関連リンク》
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