トマス・ヴィンターベア 『偽りなき者』 レビュー

Review

コミュニティが不可視の集団へと変わるとき

トマス・ヴィンターベア監督の新作『偽りなき者』の出発点は、〝ドグマ95〟の第一弾として世界的な注目を集めた彼の『セレブレーション』(98)まで遡る。

映画が公開された後で、この監督と同じ通りに住む著名な精神科医が、映画の内容に関心を持ち、直接訪ねてきた。そして、研究事例の資料を差し出し、それを映画にすべきだと提案した。ヴィンターベアは資料を受け取ったものの、すぐに目を通すことはなかった。

『セレブレーション』では、自殺した双子の妹とともに幼い頃に父親から性的虐待を受けていた主人公が、父親の還暦を祝う席で苦痛に満ちた過去を暴露する。精神科医が注目するのもよくわかる題材ではあるが、コミューンで育ったヴィンターベアが最も関心を持っていたのは、おそらく集団の心理だった。だから資料を放置したのだろう。

しかしそれから10年後、離婚も経験したヴィンターベアは精神科医が必要になり、彼に連絡をとった。もちろん礼儀として資料にも目を通した。そして衝撃を受けた。


その資料にどんな事例が記録されていたのかは、実際に『偽りなき者』を観れば察することができる。舞台は森に囲まれた田舎町で、幼稚園の先生ルーカスと、彼の親友テオの娘である園児クララのささやかな気持ちのすれ違いからすべてが始まる。

ルーカスから突き放されたように感じたクララは、彼にいたずらされたかのような作り話を園長に話してしまう。調査に乗り出した園長は、それを事実と判断し、父兄会で報告し、警察に通報する。変質者の烙印を押されたルーカスは、コミュニティから徹底的に排除されていく。

そこで、私たちがまず思い出す必要があるのが、回復記憶療法(Recovered Memory Therapy)の問題だ。この療法は、主に女性に表れるある種の心身の障害の原因を、抑圧によって記憶から抹消されてしまった過去の体験(具体的には性的虐待)にあるとみなし、その記憶を再生し、真実に直面し克服することで、本来の自己を取り戻すという考え方に基づいていた。

精神医学臨床教授レノア・テアの『記憶を消す子供たち』で、実際に記憶が戻った症例が紹介されているように、その考え方にも一理ある。だが、実際には記憶を再生するのではなく、偽の記憶を植えつけているという批判が巻き起こり、社会問題になった。それが虚偽記憶症候群(False Memory Syndrome)だ。

ヴィンターベアが精神科医から手渡されたのは、この虚偽記憶症候群の資料だ。しかし、彼が関心を持ったのは、おそらく個別の症例ではなくその背景だ。療法の背景にはフェミニズムの台頭、女性が虐げられてきた立場から本当に解放されるためには、これまで抑圧することで消し去った記憶を再生しなければならないというイデオロギーがある。

それが、セラピストがある種の兆候を見出したときに、短絡的に過去の性的虐待と結びつける要因になった。その兆候は、暗闇に対する恐怖、悪夢、依存症、自殺願望、うつ状態、罪悪感、あるいは夏でもたくさん服を着込むというようなことまで細かく分類されていた。

『偽りなき者』の少女クララもささいな兆候から調査員に誘導され、偽の記憶を押しつけられてしまう。しかし、この映画で注目しなければならないのはそんな細部ではない。ヴィンターベアはジェンダーをめぐる社会の変化が鮮明になるような設定を実に巧妙に作り上げている。

最初に印象に残るのは、町の男たちが属する猟友会の活動だ。彼らは鹿を狩り、酒を酌み交わし、肉の処理の分担を決める。それはこの町に残る伝統、家父長制的な秩序を象徴している。そして、猟友会と対置されているのが幼稚園だ。そこでは、園長も職員もすべて女性で占められている。

ルーカスはもともと小学校の教師で、小学校が閉鎖され失業したために、(おそらくは例外的に)幼稚園に職を得ることになった。つまり、本来ならそこにいないはずの人間なのだ。さらにもうひとつ見逃せないのが、クララの父親テオの子供に対する態度だ。明らかに彼は息子を優遇し、娘は部屋に閉じこもっていればいいと考えている。だからクララは、父親の親友ルーカスをもうひとりの父親のように慕い、結果として偽の記憶を引き金にイデオロギーが暴走する遠因となる。

ヴィンターベアは、明らかにこのコミュニティの変化を社会の縮図ととらえている。家父長制の不平等が正されるべきであるとしても、それに変わるコミュニティの基盤を創造することもなく、先走るイデオロギーが外部からの権力の介入を招けばどうなるのか。ヴィンターベアはそれを、“スキンシップ”を通して表現している。

映画は男たちの裸の付き合いの描写から始まる。幼稚園でもルーカスと子供たちがじゃれ合う姿が印象的に残る(但し、それを許されているのは男の子だけのように見える)。しかし、話し合うために現れたルーカスを見るなり、血相を変えて逃げ出す園長の姿が端的に物語るように、スキンシップは恐れと疑いに変わる。コミュニティは、もはや個人の顔が見えず、なにを考えているのかわからない不可視の集団に変わる。そして、闇にまぎれて陰湿な攻撃を仕掛けてくるようになる。

この映画のラストには、そんなヴィンターベアの視点が見事に集約されている。ルーカスは、破滅に追いやられかけたにもかかわらず、スキンシップを貫いている。しかし一方で彼は、不可視のものが生み出す突発的な暴力を目の当たりにする。私たちは他者を信じ、触れ合おうとするのか、それともすべてを制度に委ね、不可視の世界を怯えながら生きるのか。そんな疑問が頭をよぎるとき、またこの映画を思い出すことになるだろう。

《参照文献》
●『記憶を消す子供たち』レノア・テア 吉田利子訳(草思社、1995年)
●『Making Monsters:False Memories,Psychotherapy,and Sexual Hysteria』Richard Ofshe and Ethan Watters (Scribners,1994)

(初出:「キネマ旬報」2013年3月下旬号)

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