『マクダルのカンフーようちえん』 『桐島、部活やめるってよ』 『鍵泥棒のメソッド』 試写

試写室日記

本日は試写を3本。

『マクダルのカンフーようちえん』 ブライアン・ツェー

子ブタのキャラを主人公にした「マクダル」シリーズの最新作。以前公開された『マクダル パイナップルパン王子』とは違い、今回は日本語吹き替え版なので、細かなニュアンスがいくぶんぼやけている気がしないでもないが、それでも様々な“含み”が埋め込まれていることは読み取れる。

筆者が最も印象的だったのは、“発明”と“推手”の対比だ。

この映画には、マクダルの18代前のご先祖様であるマクデブが登場する。彼は発明家でもあり、電話やクレジットカードなど様々なものを発明したことになっている。だが、それらは役に立たなかった。その訳は、時代が早すぎたというのとはちょっと違う。たとえば、電話が分かりやすいと思うが、発明してもそれを使って話す相手がいなかったのだ。つまり、他者との関係性がないから、役に立たなかったということになる。


一方、この映画でマクダルは「カンフーようちえん」に預けられる。そこで園長先生が園児たちに教えるのは推手だ。アン・リー監督のデビュー作『推手』でも物語の鍵を握っていた推手は、太極拳の組み手で、相手の動きを読み、それに自在に対応することを目的にしている。つまりそれは、他者との関係性と深く関わり、マクデブの発明の対極にある。

この映画は、そんな対比を通して現代の中国や香港を見つめていると解釈することもできる。ちなみに、“こども武道オリンピック”こと「天下一武道会」が開催される場所は、ジャ・ジャンクー監督の『長江哀歌』やフォン・イェン監督の『長江に生きる 秉愛(ビンアイ)の物語』にも描かれた三峡ダムを想起させるが、中国が世界に誇るこのダムは、“発明”か“推手”に振り分けるとしたら、どちらになるのか。

『三峡ダムと住民移転問題』のなかには、以下のような記述がある。「中国の指導層にとっては、三峡ダム建設は、その費用/便益効果よりも、むしろ国家メンツとして、また国威発揚のシンボルとして、何が何でも完成させるという考慮が優先されてしまっているのである。そのため、一方においては、これに対する批判・反対の声を封じ込めるとともに、他方においては、「世界一のダム建設」という情報を流し続けることにより、中国国民のナショナリズムを煽り立ててきているのである

『桐島、部活やめるってよ』 吉田大八

たとえば、アレクサンダー・ペイン監督の作品は、デビュー作『Citizen Ruth』を除く4作品(『ハイスクール白書』、『アバウト・シュミット』、『サイドウェイ』、『ファミリー・ツリー』)すべてが小説の映画化でありながら、そこからは一貫したテーマが浮かび上がってくる(その一貫性については、『ファミリー・ツリー』の劇場用パンフレットに書いたレビューをお読みください)。

吉田大八監督にも同じことがいえる。デビュー作の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』から、『クヒオ大佐』、『パーマネント野ばら』を経て、4作目となるこの新作まで、すべて原作があるが、そこからは一貫したテーマが浮かび上がってくる。

『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』では、姉が妹を一方的にいびっているように見えながら、妹もそんな姉に創作意欲をかき立てられている。『クヒオ大佐』では、結婚詐欺師が女たちを一方的に騙しているように見えながら、実は女たちもそれぞれの事情で、彼を必要としている。『パーマネント野ばら』では、ヒロインのなおこが、ふたりの悩める親友が吐き出す不満や鬱憤を受け止めているように見えながら、実はふたりもなおこを受け止めていることが次第に明らかになる。

学園を舞台にした『桐島、部活やめるってよ』では、運動部、文化部、帰宅部、男子や女子のグループなどをめぐって、上下のヒエラルキーが存在している。ところが、そのヒエラルキーの頂点にいる桐島がまったく姿を見せないまま、突然、バレーボール部を辞めるというニュースが広まっていくことによって、この上下関係が崩れ、彼らの土台が揺らぐ空白の時間が生じる。そこから見えてくる様々な関係の変化には、これまでの作品に通じるものがある。

『鍵泥棒のメソッド』 内田けんじ

前作『アフタースクール』のように、こちらの思い込みを鮮やかに転覆させてしまうようなトリッキーな作品ではない。意外だったのは、脚本作りの過程で、記憶喪失というアイデアが出てきたのは最後のほうだったということ。内田監督の原点といえる自主製作の『WEEKEND BLUES』が、記憶を飛ばした会社員の“空白の一日”に起こったことが、時間軸を操作しつつ徐々に明らかにされていく作品だったので、出発点は記憶喪失なのかと思って観ていた。

内田監督の世界で魅力的だと思うのは、奇妙な成り行きで他人のトラブルに巻き込まれた主人公が、その他者のなかにもしかするとそうなっていたかもしれない自分を見出し、自分を見つめなおしていくような視点だ。特に『WEEKEND BLUES』や『運命じゃない人』にはそんな視点がよく出ていた。

この新作は、その変奏ともいえる。記憶喪失をきっかけに他人の人生を生きることによって、異なる未来の可能性に目覚めていく。どんな境遇でも堅実で前向きな姿勢をみせる男ととことん追い詰められないと自分に正直に行動することができない男の対比が可笑しい。

普通であれば話をまとめてしまいそうな時点から、あとふたひねりくらいある脚本の密度はすごい。ただし、そのぶん余韻が残らないともいえる。『WEEKEND BLUES』や『運命じゃない人』には、スクリーンの向こうとこちらをつなぐような日常的な空気が漂っているために、その身近さゆえの余韻が残るが、この新作は、スクリーンの向こうで映画的な面白さが炸裂していると同時に、完結している。