テレンス・マリック 『トゥ・ザ・ワンダー』 レビュー

Review

彼女を目覚めさせ、解放するもの

テレンス・マリック監督の『トゥ・ザ・ワンダー』には、愛し合う男女や苦悩する神父の姿が描き出されるが、そんな登場人物を追いかけ、物語を見出すだけでは、おそらく深い感動は得られないだろう。マリックが描いているのは、人間ドラマというよりは、人間を含めた世界の姿だといえる。

しかもその世界は誰の目にも同じように見えるわけではない。この映画には、見えない糸が張り巡らされ、それをどうたぐるかによって感知される世界が変わってくるように思えるからだ。

ではなぜマリックはそんな表現を切り拓くのか。おそらく人間中心主義や比較的新しい哲学である環境倫理学と無関係ではないだろう。環境倫理学の創始者のひとりJ・ベアード・キャリコットはその著書『地球の洞察』の日本語版序文で、このようなことを書いている。

西洋哲学は長年にわたって人間中心主義の立場をとり、「自然は『人間』のための支援体制や共同資源、あるいは人間のドラマが展開する舞台に過ぎなかった」。これに対して環境倫理学者たちは、「人間の位置を自然の中に据えて、道徳的な配慮を人間社会の範囲を越えてひろく生物共同体まで拡大しようとした」。


この映画における自然も、登場人物のドラマが展開する単なる舞台ではない。ニールとマリーナはモンサンミシェルの海岸で満ち潮に遭遇する。そこは干満の差が著しいことで知られる場所であり、人間を取り巻く自然の摂理をはっきりと目にすることができる。しかしその一方で、環境保護の調査官として働くニールは、開発にともなう土壌の汚染という現実とも向き合うことになる。

だが、この程度の例を挙げただけでは、見えない糸が張り巡らされているとはいえない。まだ重要な糸が隠れている。

この映画の冒頭では自然と修道院が対置され、キリスト教の世界がクインターナ神父に引き継がれる。そこで思い出しておきたいのが、キリスト教の登場で人々の自然に対する認識がどう変わったかということだ。たとえば、ロデリック・F・ナッシュの『自然の権利』には以下のような記述がある。

ギリシアとローマが衰退し、キリスト教が登場してくると、自然は西洋世界の倫理とあまりうまくいかなくなった。一般の人々は次第に次のような考え方をするようになった。すなわち、『動物を含んだ自然という概念にはいかなる権利も付与されていないし、人間以外の存在は人間に奉仕するために存在する』ということであった

この考え方の源には「創世記」がある。その第一章では神が自ら創造した人間に、子孫を増やして地を満たすことだけでなく、海の魚や空の鳥、家畜、地上を這うもの、地のすべてのものを支配することを認めている。つまり、自然に対する人間の支配権が認められ、人々は自然から搾取しても良心の呵責を感じる必要がなかった。

人間中心主義にはキリスト教も大きな影響を及ぼしている。この映画の人工的な住宅地や自然を資源として利用する様々な開発の風景は、「創世記」の神の言葉を実践しているようにも見える。だがその土地は有毒物によって汚染されつつあるのかもしれない。ニールとジェーンを取り巻くバッファローの群れは果たして誰かのために存在しているのだろうか。

そうした見えない糸は、この映画の世界が、「愛」と「神」、「人間中心主義」と「環境倫理学」という四つの要素で構成されていることを示唆している。登場人物たちは愛や神を求めているのに、なぜ孤立し、孤独に苛まれるのか。それは、人間のなかだけに愛や神を求めるからだろう。もし愛や神が本当に根源的なものであるとするなら、それらはなにも隔てることなく、世界を形作っているものに遍在しているのではないか。

この映画のラストで、マリーナは自然のなかで彼女を包む愛に目覚めるように見える。それは人間中心主義からの解放を意味しているのかもしれない。

《参照/引用文献》
●『地球の洞察――多文化時代の環境哲学』J・ベアード・キャリコット 山内友三郎ほか監訳(みすず書房、2009年)
●『自然の権利――環境倫理の文明史』ロデリック・F・ナッシュ 松野弘訳(ミネルヴァ書房、2011年)

(初出:『トゥ・ザ・ワンダー』劇場用パンフレット)