80年代イギリス映画を振り返る その一

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先月のこと、11月刊行予定の『80年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)の原稿絡みで資料をひっくり返しているときに、行方不明になっていたアレックス・コックスの『レポマン』のパンフが出てきた。

そこに書いた原稿はまだHPにアップしていなかった。『レポマン』の作品評とかではなく、80年代中頃のイギリス映画の状況。いずれ整理してHPにアップするつもりだが、ひとまずブログで公開。いろいろ甦ってくるものがある。懐かしい。

イギリス映画界期待の新星

■■転換期にあるイギリス映画界■■

イギリス映画界は、長年にわたって衰退の一途をたどっている。映画館は年々減少し、イギリス映画自体も次々と流れ込むアメリカ映画の攻勢に押しまくられているためにその製作もままならず、そればかりか、アメリカ資本による支配が着実に浸透し、イギリス映画関係者がアメリカ映画のクルーとして活躍するというのも珍しいことではないというのが、昨今のイギリス映画界の実情である。


この状況を見かねたイギリスの映画関係者は一致団結し、85年に英国映画年(British Film Year)なる大がかりなキャンペーンを繰り広げた。そのかいあってかこの年は興収のアップが記録され、イギリス映画界の下降線にとりあえず歯止めがかかったようだが、イギリスの映画産業そのものが好転したとはいえない状況が続いている。

そんなイギリス映画界が例年になくあわただしい動きをみせたのが、1986年、すなわち昨年である。そして、これらの動きを総合すると、今まさにイギリス映画界は大きな転換期にさしかかりつつあるといえるのではないかと思う。昨年、良くも悪くもイギリス映画界から巻き起こった話題の数々は、それほどにイギリス映画界の過去、現在、未来と深くかかわっているのだ。では、それらを振り返ってみることにしよう。

■■デヴィッド・パットナムのコロンビア映画への移籍■■

まず、これからのイギリス映画界にとって大きな痛手となることは間違いないと思われるのが、昨年の夏、敏腕プロデューサー、デヴィッド・パットナムがイギリスの大手映画製作会社ゴールドクレストを去り、アメリカのコロンビア映画に移ってしまったことだ。いちプロデューサーの去就がなぜそれほどの影響力を持つのかと思われるかもしれないが、彼のキャリアを知ればそれも合点がいくことだろう。

パットナムは、70年に製作した『小さな恋のメロディ』を振り出しに次々と秀作を手がけ、『ダウンタウン物語』『ミッドナイト・エクスプレス』でアラン・パーカーを、『デュエリスト』でリドリー・スコットを、『炎のランナー』でヒュー・ハドソンを、そして『キリング・フィールド』でローランド・ジョフィを、といったぐあいに、TV、CM畑から有能な新人を次々と発掘し、沈滞するイギリス映画界の活性化に重要な役割を果たしてきたプロデューサーである。

そしてとりわけ『ミッドナイト・エクスプレス』『炎のランナー』『キリング・フィールド』など国際的に高い評価を獲得した作品には、パットナムのひとつのスタイルが貫かれている。つまり、埋もれた実話に着目し、これをTV、CM界で鍛えられた新人のセンスを生かした確かなディテールの積み重ねによって映像化し、『ガンジー』や『インドへの道』といったイギリス映画の大作とはひと味違うシャープなリアリティを引き出しているということだ。

そして、パットナムが発掘した監督たちのその後といえば、アラン・パーカーは『ザ・ウォール』や『バーディ』、リドリー・スコットは『エイリアン』『ブレードランナー』『レジェンド/光と闇の伝説』、ヒュー・ハドソンは『グレイストーク』『レボリューション・めぐり逢い』とそれぞれに着実な成長をとげている。また、ローランド・ジョフィがパットナムと再び手を組んだロバート・デ・ニーロ主演の『ミッション』が、86年のカンヌでグランプリを受賞したことはまだ記憶に新しいが、この作品はイギリスを去ったパットナムの置き土産ともいえるわけだ。

それから、これはちょっと余談になるが、アル・パチーノ、ナスターシャ・キンスキーの主演でアメリカ独立戦争を描いたヒュー・ハドソンの大作『レボリューション・めぐり逢い』は、残念ながら未見だが、アメリカでは散々な酷評を買いロサンゼルス批評家協会賞の三部門受賞によってかろうじてお蔵入りをまぬかれたというほどの惨敗で、製作会社であるゴールドクレストがぐらついたという話もあるくらいだ。

話はそれたが、とにかくこのパットナムの抜けた穴を今後どのように埋めるのかが、イギリス映画界のひとつの課題といえるわけだ。これによって、パットナム・カラーの大作はイギリス映画から姿を消すことになるかもしれないが、見方をかえれば、これはイギリス映画のオリジナリティを見直す機会なのではないかという気もする。というのも、パットナムの製作してきた作品群は、『デュエリスト』や『炎のランナー』などのようにアメリカ映画にはないある種の格調(それは映画の時代背景によるところも大きいのだが)を備えているとはいえるものの、全般的にイギリスという土壌を映像に色濃く投影することよりも、国際的に通用する人材とテーマを発掘することに主眼がおかれるという傾向があるからだ。

もちろん、国際的に通用する作品を作って海外配給による興収を確保するということはイギリス映画界の経済的な側面において極めて重要なことだが、それ一辺倒に傾くことは、他国に比べてただでさえこれまでの映画史において確固とした潮流を見出せなかったイギリス映画のオリジナリティをより軽薄なものとしてしまう危険性をはらんでいる。とはいうものの、パットナムは一方で『ローカル・ヒーロー』のようなイギリスという土壌に根ざした秀作も手がけているわけだが、そうした作品については後に触れることにして、とりあえず昨年のイギリス映画界の話題を追いかけることにしたい。

■■ヴァージン・ピクチャーズの映画製作中止■■

パットナムの去就の話題ほどではないが、やはりイギリス映画界の痛手となったのが、ヴァージン・ピクチャーズの映画製作中止の決定だろう。ヴァージン・ピクチャーズは、マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」など多くのビデオクリップを手がけてきたスティーブ・バロンの劇場用映画進出第一弾である『エレクトリック・ドリーム』(『トップ・ガン』のようにMTVブームに単純に迎合した子供向け映画ではなく、軽さに味のあるステキな作品だった)を機に、ヴァージン・レコードの社主リチャード・ブランソンが設立した映画製作会社だ。

それ以後、リチャード・バートンの遺作となったマイケル・ラドフォード監督の『1984』や30年代イギリスのパブリック・スクールを舞台に、若者たちの権力への野心や思想、同性愛などを格調高く回顧的な色調のなかに浮き彫りにし、84年のカンヌで芸術最高貢献賞を受賞したマレク・カニエフスカ監督の『アナザー・カントリー』など、決して派手ではないが力のこもった作品を発表してきた。

ヴァージンの映画製作中止の経緯は寡聞にして知らないが、ヴァージンの作品も含めてイギリス映画には、アメリカ映画への対抗意識から一方的に芸術性(あるいは文学性)への傾斜を強め、観客の嗜好から遊離してしまう傾向があるように思う。これはヴァージン作品ではないが、『アナザー・カントリー』受賞の翌年、85年のカンヌでヤング大賞を受賞した、イギリス最後の死刑囚といわれるルース・エリスの実話をもとにした『ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー』にも同様のことがいえるのではないだろうか。

■■インディーズ系個性派映画作家にかけるイギリス映画界の期待■■

ということで、イギリス映画界の特にメジャー系は、アメリカ映画への対抗意識ゆえに一種の硬直状態にあり、しかもパットナムの流出によって大作もままならぬとあれば、その期待はインディペンデント系の個性派にかけられるわけであり、イギリス映画自体がそうした人材に着目し、個性派作家たちの群雄割拠による活性化を誘発しなければならない。そうした姿勢は、イギリスのテレビ局であるチャンネル4の資本投下や英国映画協会のバックアップによって、地味ながら少しずつ成果を上げているようだ。

たとえば、イギリス映画界の異端児といわるデレク・ジャーマンの7年越しの大作『カラヴァッジョ』は英国映画協会の資金援助によって完成し、昨年イギリスで公開されている。ジャーマンは、70年代後半に『セバスチャン』『ジュビリー』『テンペスト』といった低予算作品を次々に発表し、本質的には画家に近い感性で、同性愛、中世のオカルト学者からユングに至る錬金術、シェークスピアなどの影響によって光と影に象徴される独特の二元論的な世界を切り拓き、一部にカルト的な支持を集めている作家である。

彼は、80年代に入ってしばらく作品から遠ざかっていたが、この『カラヴァッジョ』と85年に公開された『エンジェリック・カンヴァセーション』でイギリス映画界に再浮上し、この二本の新作は今年日本でも公開が決定している。ジャーマンは、事あるごとにパットナムに代表される映画を“ハリウッドへの迎合”、あるいは“ドルをかせぐための映画の安売り”として厳しく批判してきたが、そのパットナムがイギリスを去り、ジャーマンが浮上した86年は、これからのイギリス映画の運命を象徴しているように思えてならない。

『カラヴァッジョ』は7年越しということもあって大作となったが、これからのイギリス映画をささえていくのはメジャー、インディ系を問わず、とりあえず大作ではなく、しかも芸術性への逃避を拒否し、イギリスという土壌や作家の個性を色濃く反映し、小粒ながらピリッとしたひねりがきいた作品だと思うし、それを期待してもいる。大作は、そうした作品の充実から自然発生すればよいのだ。

但し、そうした比較的地味な作品が、海外配給において、話題性だけの大作群の影にかくれてヒットに結びつかない危険性は多分にある。その責任の一部は、海外の観客にもあるし、日本も決して例外とはいえない。実際、昨年だけをとってみても本数はきわめて少ないが、これからのイギリス映画の手応えを十分に感じさせてくれる作品が日本でもちゃんと公開されているのだ。

たとえば、先にちょっと触れたビル・フォーサイス監督の『ローカル・ヒーロー』。マスコミの話題にすらのぼらず残念なことに短期間で公開を終えた作品だが、個人的には昨年観た映画の中でベスト3に入る傑作なのであり、何度見ても笑いと涙がこみあげてきてしまう不思議なリズムとユーモア感覚を備えた作品である。

なお、『ローカル・ヒーロー』に続くフォーサイスの4作目『アイスクリーム・コネクション』(Comfort and Joy)は、劇場未公開ながらビデオで観ることができる。こちらも前作におとらずすばらしい作品である。どちらの作品も、あまり冴えない主人公が、自分とは縁のない小さな地域やコミュニティに闖入し、きわめて三枚目的に人々の絆をとりもっていくといった物語だが、大きな世界の動き(『ローカル・ヒーロー』では平和な田舎町をかすめるように飛び去るジェット戦闘機、『アイスクリーム・コネクション』では、ラジオから流れる世界情勢)の中にあるイギリスの、そのまた小さな社会という構図をフォーサイスが巧みに描いていることに注目したい。

また、昨年末に公開されたイギリスの新鋭クリス・バーナードのデビュー作『リヴァプールから手紙』も、前半は冴えないメロドラマに見えながら、後半ではソビエトのイメージとしての絶望とリヴァプールの現実としての絶望を見事に対比した秀作である。

■■イギリスに舞い戻った期待の新星アレックス・コックス■■

さて最後になるが、昨年のイギリス映画界のもうひとつの話題は、アレックス・コックスの『シド&ナンシー』の公開である。イギリスを脱出し、ロスでその映画的な才能に磨きをかけ、『レポマン』のカルト・ヒットを放ち、セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスとナンシー・スパンゲンの実話を映画化した『シド&ナンシー』でイギリス映画界に切り込んできたアレックス・コックスは、大げさな言い方をすれば、パットナムと入れ替わるようにイギリスに舞い戻った期待の新星ということになるだろう。

海外では『シド&ナンシー』を、ドラッグにおぼれていくふたりの姿を徹底的なリアリズムで描いた作品として高く評価しているようだが、筆者はちょっと違うように思った。コックスはどんなに悲惨な物語でも、そのリアリティの向こう側にファンタジックな異次元空間を切り拓くことのできる稀有な存在なのだ。なにかを思い切り投げつけても壁にぶつかることもなく消え去ってしまうような虚無感に包まれた若者が、『レポマン』ではレポマンという集団の中に、『シド&ナンシー』ではドラッグの中に自己の存在を見出し、そして夢幻のような空間にちょっと切ない余韻を残して消えていく。

コックスはこの作品で国際的に通用する力量を十分に見せつけてくれたが、『シド&ナンシー』以後、いかにイギリスの土壌とかかわっていくのかじっくりと注目したいと思う。

(初出:『レポマン』劇場用パンフレット)

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