ジョシュア・オッペンハイマー・インタビュー 『アクト・オブ・キリング』:世界を私たちと彼ら、善人と怪物に分けるのではなく

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アンワル・コンゴとの出会い

60年代のインドネシアで共産主義を排除するために行われた100万人規模といわれるジェノサイド。世界に衝撃を与えたジョシュア・オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』は、この悲劇が過去のものではないことを私たちに思い知らせる。北スマトラで取材を進めていたオッペンハイマーは、虐殺の実行者たちがいまも大手を振って町を闊歩し、過去の殺人を誇らしげに語るのを目にし、自分たちで好きなように殺人を再現し、映画にすることを提案した。

もちろんこれは加害者であれば誰にでも通用するアイデアではない。映画作りの先頭に立つアンワル・コンゴは、映画館を根城にする“プレマン”と呼ばれるギャングだった。アメリカ文化に強い影響を受けている彼とその取り巻きは、映画スター気取りで殺人者を演じ、虐殺を再現していく。この映画で重要な位置を占めるのはそんなアンワルの存在だが、オッペンハイマーが彼に出会うまでには紆余曲折がある。

私が最初にインドネシアに行ったのは、プランテーションの労働者たちが映画を作るのを手伝うためでした。その『The Globalization Tapes』(03)を作っているときに、労働者たちが65年のジェノサイドの生存者であることを知りました。ベルギーの企業のために働く彼らは、防護服もないまま有害な除草剤を散布し、その毒性で肝臓をやられ40代で亡くなった人もいました。企業が扱っているのは、私たちの身の周りにある化粧品などに使われるパーム油です。そして労働者が組合や署名などで抵抗しようとすると、『アクト・オブ・キリング』に登場する準軍事組織、パンチャシラ青年団が企業に雇われ、彼らを脅迫や暴行で黙らせるのです。彼らは、両親や祖父母が組合員だったというだけで共産党の支持者とみなされパンチャシラ青年団に虐殺されているので、そういう脅迫により恐怖を感じるのです。私は、西欧や日本の日々の生活というものが、いかに他人の苦しみの上に築かれているのかを実感しました


『The Globalization Tapes』には、劣悪な環境にある労働者だけでなく、笑みを浮かべながら過去の殺人について語る人物の姿も映し出される。しかし、オッペンハイマーはすぐに加害者に注目したわけではない。

生存者たちと一緒に映画をもう一本作ろうということになりました。いまだに権力を持ち続けている加害者たちに囲まれて生きるとはどういうことなのか、なぜいまも恐れなければならないのかというのがテーマでした。ところが軍がすぐに私たちの行動を察知し、脅迫や妨害をしてきたため、生存者は引き下がるしかありませんでした。その一方で私は、加害者たちがそろって過去の殺人を自慢げに語るのを目にし、彼らを撮影していました。その素材を生存者や人権団体のメンバーに見せ、撮影を続けるべきだということになりました。それから二年間、スマトラの各地を渡り歩き、加害者たちを撮り続け、41人目に出会ったのがアンワル・コンゴでした。彼も他の加害者と同じように自慢げでオープンで、どのように殺したのかを再現してみせました。実際に何百人も人を殺した場所でダンスを踊る姿は、政権の本質を露にする最もグロテスクなメタファーになっていました。しかし彼の場合はトラウマが表面に現れていて、自分自身の邪悪なものを踊ることによって振り払おうとしていることは明らかでした。それから五年に渡ってアンワルと彼を取り巻く人々を撮影し、この映画を作り上げたのです

「生存者が撮れなかったから」ではない

ジェノサイドを題材にしたロバート・レメルソン監督のドキュメンタリー『40 Years of Silence』(09)では、過去の体験を語る生存者たちの姿が記録されている。この映画が撮影されたのはジャワ島とバリ島だが、『アクト・オブ・キリング』の舞台となる北スマトラとは状況に違いがあるのだろうか。

確かに北スマトラでは軍や準軍事組織が大きな力を持っています。西欧や日本の企業が関心を持つガス田やプランテーションなどがある地域ほど、そういう力も大きくなると思います。ジャワ島やバリ島には天然資源があまりありません。ただ、軍の妨害があったことは確かですが、私が加害者を撮り続けたのは、生存者が撮れなかったからではありません。最も差し迫った問題は、加害者が咎められることもなく権力を持ち、あのように語っていること、いま何が起きているのか、そして、人間にとって殺すとはどういう意味があるのかということです。生存者を題材にした映画にはそれを明らかにすることはできません。

レメルソンの映画には、生存者の過去の体験だけではなく、現在の苦しみが記録されている部分もあります。最もパワフルな瞬間は、少年がいまだに恐怖のなかを生きていることを告白する場面です。でも加害者の存在がはっきり見えてきません。おそらく加害者がオープンで、自慢げに語るとは思っていなかったはずです。個人的な意見を言えば、生存者と加害者が対面する場面をもっと掘り下げるべきだったと思います。インドネシアの雑誌「TEMPO」は、『アクト・オブ・キリング』に触発されて、ジェノサイドを特集した合併号を出しました。60人の記者がジャワ島やバリ島の各地でアンワルのように語る加害者たちを発見し、彼らの告白を掲載しました。この建設的な方法によって、アンワルはスケープゴートにされるのではなく、全国にいるたくさんの加害者の一人になりました。つまり、レメルソンと私の映画の違いは、地域ではなく、問題意識にあるということです

認知的不協和という心理

インドネシアではジェノサイドの後で、政府によって共産主義者の残酷さを強調するプロパガンダ映画が製作され、国民に先入観を植えつけてきた。この映画ではそんなプロパガンダも意識されている。新聞社の社主は、共産主義者が憎まれるようにするのが仕事だったと語る。かつてアンワルとともに虐殺を実行したアディという男は、殺した後で共産主義者を悪者に見せるのは簡単なことで、残酷だったのは自分たちだと平然と語る。彼らはダブルスタンダードをわきまえているから、この映画のなかでも変わることがない。しかしアンワルは違う。アメリカ映画にのめり込める彼は、プロパガンダも信じているように見える。だからその文脈に沿って自分を美化する映画を作ろうとする。だが一方で非常に正直な人間でもある彼は、映画のなかの自分が本来の自分と違うことを受け入れる。だから彼だけが変化する。

それは本当に洞察に満ちた指摘です。山形国際映画祭で上映されたのは、40分長いロング・バージョンですが、そのなかにアディとアンワルが、政府が作ったプロパガンダ映画をどう思っているのか語る場面があります。アディにとってそれは嘘ですが、アンワルは自分の気持ちを楽にしてくれるものだと答えます。彼は、わかっていても違うことができてしまう認知的不協和という心理的な状態にあります。嘘だとわかっていても、信じることができるということです。加害者のなかでも地位の低い実行者たちは、みなそうなのではないかと思います。ただ、アディだけが違います。彼ははっきり嘘だと認めながら、ごく普通に生きています。新聞社の社主や当時の副大統領などは、嘘だとわかっているし、それを認めます。指示をしただけで実際の殺人とは距離があり、おぞましい犯罪のイメージに苦しめられていないからです。

それから、映画作りがアンワルに影響を及ぼす理由についてですが、彼の内面には葛藤があったと思います。一方では、滝を背景にした場面のように自分を美化するイメージを生み出したいと思っていました。しかし、そんなイメージは彼に本当の慰めや救いをもたらしません。あるレベルではそれが嘘だとわかっているのです。だから映画の終盤で滝の場面の映像を観ながら、これはとても美しく素晴らしいけど、(自分が犠牲者を演じている)拷問の場面を見せてくれと言うのです。アンワルの別の部分は、自分の痛みと向き合うことを求めているのです。嘘は本当の救いをもたらさないとわかっているからです

次回作では沈黙の本質を問う

オッペンハイマーの次の作品『The Look of Silence』では、加害者ではなく生存者が対象になるが、今度はどんなアプローチを試みようとしているのだろうか。

問おうとしていることが違います。生存者にとって加害者たちに囲まれて生きるというのはどういうことなのか。この恐ろしい沈黙の本質とはなにか。それから生存者の視点を通して加害者を見る映画でもあります。生存者の家族が息子を殺した人間を捜す話です。私がアンワルに出会う前に撮影した40人の加害者たちの映像のなかから、一家の末弟が犯人を見つけ出し、兄の死から余儀なくされてきた沈黙を破ります。生存者についての映画を作るときには、クリシェの地雷原を通らなければなりません。そういう作品のほとんどは、観客はなにも悪くないと言って彼らを安心させるためにあります。残虐行為の被害者を聖人のように描き、観客が彼らと同じ心境になるということです。そんなメッセージは、『アクト・オブ・キリング』を観たあとでは、嘘であるだけでなく、偽善にもなります。そういうクリシェを回避することで、恐怖から生まれた沈黙、その沈黙を破る必然とそれにともなうトラウマについてのある種の詩のような映画になると思います

オッペンハイマーは、グローバリゼーションやジェノサイドとそれ以後の現実が、決して私たちと無関係ではないことを強調する。そんな姿勢は彼のルーツと無関係ではないだろう。

私の父と義母はホロコーストから逃れることができましたが、義母の家族などはみな犠牲になりました。私は成長する過程で、政治や文化の目的は悲劇が再び起こるのを防ぐことにあるという意識を培ってきました。しかしこの「二度と再び」が狭い意味で「私たちに二度と再び」になると、世界を私たちと彼らに分けてしまい、暴力が繰り返されます。だからこそ『アクト・オブ・キリング』がとても重要になります。私たちは加害者を怪物としてではなく、過去に恐ろしいことをやった人間として見ます。彼らを怪物とみなし、世界を私たちと彼ら、善人と怪物に分けてしまうことが、繰り返しを生む種になるのです

(初出:「キネマ旬報」2014年5月上旬号)