『クーリエ 過去を運ぶ男』 『ジェーン・エア』 試写

試写室日記

本日は試写を2本。

『クーリエ 過去を運ぶ男』 ハニ・アブ・アサド

自爆テロを通してパレスチナ人の若者の生と死を見つめた『パラダイス・ナウ』で注目を集めたハニ・アブ・アサド監督の新作。凄腕のクーリエ(運び屋)が、誰も顔を知らず、生死すら定かではない謎の人物イーヴル・シヴルに鞄を届ける仕事を強要される。猶予はわずか60時間。

タフガイのクーリエにジェフリー・ディーン・モーガン、クーリエと行動をともにするアナにジョシー・ホー、FBI捜査官にティル・シュヴァイガー、殺し屋夫婦にリリ・テイラーとミゲル・フェラー、鍵を握る男マックスウェルにミッキー・ロークという顔ぶれ。

アブ・アサド監督のオリジナルな企画ではなく、オファーを受けて作った作品で、くせのあるキャラクターとか、ニューオーリンズやラスヴェガスが醸し出す雰囲気は嫌いではないが、気になるのはどこからこういうストーリーを思いついたのかということだ。


脚本にクレジットされているブランノン・クームスとピート・ドリスについては、ほとんど情報がないがどういう経歴の持ち主なのだろう。映画を最後まで観た人は、ミッキー・ロークがかつて主演したある作品のことを思い出すはず。この脚本は、あの作品、あるいはヒョーツバーグの原作をヒントにしているとしか思えないのだが。

実はこれはオマージュで、だからニューオーリンズを舞台にしていて、ミッキー・ロークがカメオ出演しているのではないのか。

『ジェーン・エア』 キャリー・ジョージ・フクナガ

『闇の列車、光の旅』で長編デビューを飾ったキャリー・ジョージ・フクナガの新作。その『闇の列車、光の旅』では劇場用パンフレットにも作品評を書かせてもらい、すごく期待している監督だが、中南米のギャングやアメリカを目指す移民の世界から、いきなりシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』というかけ離れた題材に挑戦するとは思わなかった。

映画の冒頭で、ジェーン(ミア・ワシコウスカ)が無人の荒野を彷徨い、冷たい雨に打たれ、ぬかるみに足をとられて泥まみれになる姿を見つめながら、その世界に引き込まれた。やはりこの監督、ただ者ではない。

筆者はこの映画を観ながら、デビューしたばかりの頃のマイケル・ウィンターボトムのことを思い出していた。ウィンターボトムは、サッチャリズムから連続殺人、同性愛、神と救済、ロード・ムーヴィーなどが絡み合い、時代を独自の視点からとらえるような『バタフライ・キス』でデビューし、その次にいきなり文豪トマス・ハーディの世界に挑戦し、『日陰のふたり』を撮った。

そのふたつの作品は、かなりかけ離れているように見えるが、ウィンターボトムには、一貫したスタンスがある。筆者がインタビューしたとき、彼は共通するスタンスについて以下のように語っていた。

私は一般的な意味での物語というものに観客を引き込むような作り方はしたくない。観客が自分の考えや感情を自由に選択する余地を残しておきたい。それがある種の距離感を感じさせることになるかもしれないが、決めつけを極力排除し観客に委ねたいんだ

ウィンターボトムは文芸作品を映画化しても、物語に縛られることなく、状況と個人に肉迫し、独自の世界を切り拓く。筆者は、フクナガにも似たスタンスを感じる。

考えてみると、『バタフライ・キス』と『闇の列車、光の旅』は、無関係だった主人公たちがともに旅をするところから、その結末までかなり接点があることに気づく。そして、『ジェーン・エア』の導入部では、荒野を彷徨うジェーンというまさに状況と個人だけが描き出され、物語を洗い流してしまう象徴的な儀式になっている。もちろんそれは導入部だけでなく、主人公に向けられる眼差しに引き継がれていく。だから筆者はこの映画の世界に引き込まれるのだ。