キラン・アルワリアと『灼熱の魂』とカナダの多文化主義をめぐって

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「るつぼ」とは違う「モザイク」が生み出す文化と相対主義のはざまで

カナダは世界に先駆けて国の政策として多文化主義を導入した。その政策には二本の柱があった。一本は、ケベック州と残りのカナダがひとつの国家としてどのように存在すべきなのかという課題に答えるものだ。カナダの多文化主義の功罪をテーマにしたレジナルド・W・ビビーの『モザイクの狂気』では、以下のように記されている。

同委員会の勧告に基づいて、公式の政策声明が出された。カナダには二つの建国民族――フランス人とイギリス人――がいると宣言された。これ以後、カナダは二つの公用語――フランス語と英語――を持つことになる。カナダ人は一生いずれの言語で暮らしてもよい。一九六九年、この考えは確固不動のものになった。公用語制定法の通過に伴い、異集団間を支える主要な二つの礎石の一つ――二言語併用主義――が据えられた


そして、もうひとつの課題が、他の文化集団をどう位置づけるかということだった。

この二つ目の重要な異集団問題は、調査委員会によって、先の報告書全六冊の中の第四冊目に付け足しのようなものとして言及された。同委員会は、三分冊をイギリス系・フランス系問題の取り扱いにあててから、他の文化の系統を持った人々も、その民族遺産の中から良いものを保持する機会を持つべきであると勧告した。文化的多様性はカナダを豊かにする、と論じられた。我々は、諸民族からなる一国家となるであろう。一九七一年、カナダの危急存亡を賭けた二つの礎石の二番目――多文化主義――が二言語併用主義と並んで設置された

そんなカナダの多文化主義は、アメリカの「るつぼ」モデルに対して「モザイク」モデルとされる。たとえば、アメリカでは、移民の二世は、両親が持つ文化や伝統から次第に離れ、アメリカ人としてのアイデンティティを切り拓いていく。カナダの場合には、それぞれの移民が独自の文化や伝統を保持することを奨励する。

映画『ゴッドファーザー』のコルレオーネ父子のモデルとなったボナーノ父子の世界を掘り下げたゲイ・タリーズの『汝の父を敬え』では、この父子の関係について以下のように書かれている。

このような外国人を父にして生まれ、生涯を通じて父親に忠実でありつづけることは、アウトサイダーでありアメリカ的なものと対立しているという重荷を背負うことだったのである

ボナーノ父子のような関係は、「るつぼ」の世界では異端となるが、「モザイク」の世界であればある程度、容認されるのだろう。しかし、それぞれの人種が独自の文化や伝統を保持するのはよいとしても、そのモザイクがどのようにカナダ文化なるものを形成していくのかについては、明確なヴィジョンがあるわけではなく、曖昧にされている。

いずれにしても、カナダの多文化主義は、この国の音楽や映画などに様々なかたちで影響を及ぼしている。

そこで筆者がまず注目したいのが、インド系カナダ人の女性シンガー、キラン・アルワリア(Kiran Ahluwalia)だ。子供の頃に両親とインドからカナダに移住し、トロントで育った彼女の音楽性はカナダの多文化主義と無関係ではない。その違いは、彼女の夫で、パキスタン系アメリカ人のギタリスト、レズ・アバシ(Rez Abbasi)や、アバシの音楽に欠かせない存在となっているインド系アメリカ人のサックス奏者、ルドレシュ・マハンサッパ(Rudresh Mahanthappa)、ピアニストのヴィジェイ・アイヤーと比較してみるとよくわかる。

マハンサッパはコロラド州の白人のコミュニティで自分の血をまったく意識することなく育ったという。アイヤーの両親は南インドからの移民だが、アイヤーの音楽の基礎は15年にわたってクラシックを学んだことで培われた。パキスタン生まれで4歳のときに両親とアメリカに移住したアバシは、ジャズとクラシックを学んだことが音楽の基礎になっている。「るつぼ」モデルの彼らは、両親の文化や伝統をそのまま引き継いではいない。

では、キラン・アルワリアの場合はどうか。彼女が大学で学んだのは労使関係の分野だったが、一方では、高校、大学を通じて断続的にインド音楽を学んでいた。大学卒業後は音楽とは関係のない分野に一度は就職をするが、もっとインド音楽を学ぶために仕事をやめ、インドに向かう。そして、自分のルーツに関わるパンジャブ人のフォークソングだけではなく、遠い昔にペルシャからインドに伝わった準古典音楽ガザルも習得した。特にガザルについては、インドでは宮廷音楽として継承されてきたため、宮廷の衰退とともに伝統が失われようとしていたが、アルワリアはカナダでガザルの作曲も手がけ、保存するのではなく発展させてもいる。

さらに彼女は、インドにルーツを持つ自分の音楽と、まったく異なる背景を持つ音楽の融合を試みる。自分の名前をアルバム・タイトルにした『Kiran Ahluwalia』(05)では、カナダのケープ・ブルトン出身で、スコットランドやアイルランドの文化や伝統を継承するフィドラー、ナタリー・マクマスターを、『Wanderlust』(07)では、ポルトガルのファドのギタリスト、ホセ・マヌエル・ネト(Jose Manuel Neto)とベーシスト、リカルド・クルス(Ricardo Cruz)を、最新作『Aam Zameen:Common Ground』(11)では、アフリカから“砂漠のブルース”を代表するティナリウェンとその弟分のテラカフトを迎え、ハイブリッドでグローバルなサウンドスケープを切り拓いている。

そんなアルワリアの世界には、「モザイク」モデルのカナダ多文化主義のよい面が表われているといってもよいだろう。

しかし、先述したように多文化主義のヴィジョンには曖昧なところがあり、理想を実現するために乗り越えなければならない課題が明確になっている。そのひとつが相対主義だ。異なる見解に対して、どちらも同等の価値があるとみなすため、よりよいものを選択できなくなるような相対主義が蔓延する。『モザイクの狂気』では、以下のように説明されている。

我々は、可能な選択による得失を注意深く調べ、それから、勇気を持って実際に何が「最善」であるかを提案するよりもむしろ、代わりに安易な道を取る。我々は宣言する――多元主義のお墨付きをもって――教養があり、啓発された、洗練されたカナダ人は、ほぼ何事にも寛大であり、何事に関してもめったに立場を明らかにしない人々であることを

カナダのケベック州出身の異才ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『灼熱の魂』は、そんな課題や現実を踏まえてみると、その独特の構成や結末がより興味深く思えてくる。

この映画は冒頭から私たちを謎めいた状況に引き込む。物語は主人公である初老の中東系カナダ人女性ナワルの死から始まる。双子の姉弟は急逝したこの母親の遺言に戸惑う。世間に背を向け、実の子供にすら心を開かなかった彼女が、遠い昔に死んだと思い込んでいた父親と、存在することすら知らなかった兄に宛てた手紙を二人に託していたからだ。姉弟は手紙に導かれるように母親の祖国を訪れ、わずかに残る彼女の足跡を追い、あまりにも残酷な真実にたどり着く。

この映画は予備知識が少ないほど終盤の衝撃が大きくなるので、具体的な内容には踏み込まないが、ここまで書いてきたような背景があるからこそ、このような作品が生まれるということは強調しておきたい。

過剰な相対主義は玉虫色の世界をたぐり寄せ、真理や価値観を曖昧にし、遠ざけていく。しかし、この映画で浮き彫りになるナワルの人生は、そんな相対主義への逃避を許さない。と同時に敵と味方の二元論も封じ込めてしまう。なぜなら対立は他者との間にあるのではなく、両者が同じ人間のなかに取り込まれているからだ。この映画は、本当の多文化主義がその内なる痛みを乗り越えたところから始まることを物語っている。

※『灼熱の魂』については、劇場用パンフレットにこのテキストとはまったく視点が異なる作品評を書いておりますので、そちらもぜひお読みください。

《参照/引用文献》
●『モザイクの狂気 カナダ多文化主義の功罪』レジナルド・W・ビビー 太田徳夫/町田喜義訳(南雲堂、2001年)
●『汝の父を敬え』ゲイ・タリーズ 常盤新平訳(新潮社、1973年)

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