『リンカーン』 『ウィ・アンド・アイ』 試写

試写室日記

本日は試写を2本。

『リンカーン』 スティーヴン・スピルバーグ

素晴らしいというよりは凄いというべきなのだろう。ある意味、スピルバーグの集大成といってもいいと思う。

この映画の原作となったドリス・カーンズ・グッドウィンの『リンカン』は長い。長いといっても、リンカーンの人生の最後の5年間に絞り込まれているので、一般的な伝記に比べれば扱っている時間ははるかに短いといえるが、映画が扱う時間はそれよりもずっと短い。大胆に切り落とされている。

1864年11月に2期目を目指す大統領選に勝利を収めてから、憲法修正第13条が下院で可決され永久に奴隷制が禁止され、1865年4月に暗殺されるまで。半年にも満たない。南部人の立場もほとんど描かれない。これはひとつ間違えば非常に危険な映画になりかねない。

ジェームズ・M・バーダマンの『ふたつのアメリカ史』に書かれているように、アメリカにはふたつの歴史がある(確か本書の帯には「リンカーンは悪魔である」という言葉が使われていた)。「北部」の見地に立って書かれた歴史が、アメリカ史の通史のように流通しているが、「南部」の見地に立てばもうひとつのアメリカが見えてくる。


たとえばこの映画はよほど注意深く観ないと、『ふたつのアメリカ史』にある以下のような記述は読み取れないだろう。

いいかえれば、北部人は、奴隷制度は悪であり、奴隷は解放されるべきだと思っていたかもしれないが、解放された黒人が北部にやってきてともに働き、生活することはまっぴらだったのだ

しかしそれでもこの映画におけるリンカーンの人生の切り取り方には、非常に鋭いものを感じる。スピルバーグは、「歴史」や「人物」の部分はダニエル・デイ=ルイスのカリスマに委ね、その部分に縛られない独自の世界を切り拓いているように見える。

その世界が、筆者が以前書いたスピルバーグ論「偽りの世界としてのサバービア/アメリカ」の到達点のように感じられたので冒頭で集大成と表現したが、もうすこし頭のなかを整理してレビューにまとめることにしたい。

『ウィ・アンド・アイ』 ミシェル・ゴンドリー

この映画はゴンドリー(+ポール・プロック、ジェフ・グリムショー)が書いた脚本があるからフィクションである。フィクションではあるが、ブロンクスのコミュニティ・センター「ザ・ポイント」に集まる実在の高校生たち、すなわちアマチュアを起用してリアルな感情を引き出そうとする作品でもある。

こういうタイプの作品で重要になるのは、あらかじめ書かれた脚本と撮影の現場から生まれる空気のバランスだ。最近観た映画のなかで、そのバランスにうなったのが、小林啓一監督の『ももいろそらを』だった。この映画は一見すると、場の空気や即興性を重視し、長回しで高校生たちの感情を生き生きととらえる作品のように見える。しかし実際にはとんでもなく緻密に作り込まれ、その上ですべてが成り行きで自然に見えるように演出されている。

もちろんそういう方法論が正しいということではない。決め事を最小限にとどめ、自発性や即興に委ねるのでもかまわない。要は混沌とした場面であろうが、整然とした場面であろうが、脚本や即興性やリアルといったことに対する作り手のスタンスが一貫していればいいのだ。それが作品の純度になる。

この映画は、筆者の目には、いいとこ取りをして繋いでいるように見える。ある場面では即興性に委ね、ある場面では脚本を優先する。その一貫性の欠如が生み出すぎこちなさと、青春映画で若者たちが見せるぎこちなさを取り違えている気がする。だから筆者はこの映画に爽やかさやリアルな痛みを感じない。