今週末公開オススメ映画リスト2013/03/14

週刊オススメ映画リスト

今回は『汚れなき祈り』『偽りなき者』『ある海辺の詩人―小さなヴェニスで―』『シャドー・ダンサー』『クラウド・アトラス』の5本です。非常に見応えがあって、奥の深い作品が並んでいます。

おまけとして『ひまわりと子犬の7日間』のコメントをつけました。

『汚れなき祈り』 クリスティアン・ムンジウ

2005年にルーマニアで実際に起こった「悪魔憑き事件」に基づいた作品ですが、決してその忠実な再現というわけではなく、ムンジウ監督の独自の視点がしっかりと埋め込まれています。

『汚れなき祈り』試写室日記でも書きましたが、この監督の素晴らしいところは、まずなによりも、限られた登場人物と舞台を通して、社会全体を描き出せるところにあると思います。カンヌでパルムドールに輝いた前作『4ヶ月、3週と2日』(07)では、チャウシェスク独裁時代の社会が、本作では冷戦以後の現代ルーマニア社会が浮かび上がってきます。

その前作がふたりの女子大生と闇医者、本作がふたりの若い修道女と神父というように、時代背景がまったく異なるのに、共通する男女の三角形を軸に物語が展開するのは決して偶然ではありません。ムンジウ監督が鋭い洞察によってこの三角形の力関係を掘り下げていくとき、闇医者や神父に権力をもたらし、若い女性たちから自由を奪う社会が炙り出されるということです。

この『汚れなき祈り』の劇場用パンフレットに、「社会を炙りだすムンジウの視線」というタイトルで、長めのコラムを書かせていただきました。自分でいうのもなんですが、なかなか読み応えのある内容になっているかと思います。劇場で作品をご覧になられましたら、ぜひパンフもチェックしてみてください。


そのパンフでは触れませんでしたが、映画のなかで興味をそそられたことを書いておきます。ヒロインのひとり、アリーナが修道院で発作を起こして病院に運ばれたあとに、彼女を診断した医師がもうひとりのヒロイン、ヴォイキツァと修道女長にアリーナの病状を説明する場面があります。

自分のデスクに座る医師の背後の壁には3枚の写真が並べて貼ってあります。1枚がイコン(聖像画)、1枚がいかにもカレンダーに使われそうな夕日をとらえた風景写真、もう1枚がモナリザの微笑です。

冷戦以後には衰退していた教会が復活してきて、この医師も台詞から察するにそれなりの信仰心を持っていて、神父にも祈祷を頼んだりしているようなのですが、それが本物だとしたらイコンを他の2枚の写真と並べて貼っていたりはしないでしょう。この3枚の写真は、求心力を生み出すものがなく、様々な価値観が脈絡もなく、散在しているような世界を想起させます。だからこそ、限定された空間に、歪んだ力関係が生まれるともいえそうです。

まあ、この部分だけを抜き出すと深読みと思われそうですが、パンフのコラムを読んでいただくと、そういう細部も印象的に感じられるようになるかもしれません。ぜひ!

『偽りなき者』 トマス・ヴィンターベア

トマス・ヴィンターベア監督の『光のほうへ』につづく新作です。『光のほうへ』レビューにも書きましたが、筆者はこの前作をあまり評価できませんでした。コミューンで育ったヴィンターベア監督は、集団の心理や行動に対する洞察に優れ、それが実際に『セレブレーション』(98)や『ディア・ウェンディ』(05)に表れていましたが、『光のほうへ』にはそうした感性や表現力が生きるようなシチュエーションがほとんど見当たりませんでした。

この新作はまさにコミュニティをめぐる物語であり、この監督の個性が遺憾なく発揮されています。「キネマ旬報」2013年3月下旬号のKinejun Selectのページに、「コミュニティが不可視の集団へと変わるとき」というタイトルで作品評を書いていますので、ぜひお読みください。

ヴィンターベア監督がなににインスパイアされてこの映画を作ったかということに興味をお持ちのかたは、筆者サイトの以下の記事をお読みになることをオススメします。

サタニズムと回復記憶療法――悪魔の虚像に操られる記憶
ブラック・ダリアと虚偽記憶シンドローム――事件の暗闇に囚われた人々の物語
サタニック・パニックの社会的背景――キリスト教保守派とフェミニズムの皮肉な繋がり

長いテキストは読みたくないという方のために、3番目の記事からこの映画に直接つながるともいえる部分を抜き出しておきます。

それは1983年にカリフォルニア州マンハッタン・ビーチにあるマクマーティ保育園で起こった事件です。その発端は、この保育園に2歳になる次男マシューを預けていた母親が、息子の肛門が赤く腫れていることを不審に思ったことでした。彼女は、息子が保育園の唯一の男性教師にソドミーを受けたと思うようになり、息子を問い詰めます。

彼女は息子を医者に連れていきますが、医者が発見したのは赤い腫れだけで、彼は2歳の子供にソドミーがどんな致命傷になるかを母親に説明しました。納得できない彼女は幼児虐待に対処するために新設された医者とソーシャル・ワーカーの施設に息子を連れていきます。息子をみた経験の浅いインターンは、患部の状態よりもまず母親の話を受け入れました。そして、幼児虐待を専門とするセラピストや警察が動きだすことになりました。

男性教師は何ら証拠がないままに証言だけで逮捕されました。保育園に子供を預けていた母親たちはお互いに連絡を取り合い、自分の子供たちが虐待を否定すると、それを認めるまで様々な質問を繰り出し、次々に警察に報告しました。その頃には、マシューの母親の発言は、男性教師が司祭のかっこうで息子を虐待したというところまでエスカレートしていました。

これはアメリカの出来事ですが、『偽りなき者』を観たら、間違いなくこの事件との繋がりを感じられることでしょう。「キネマ旬報」の作品評では、この具体的な事件は引用しませんでしたが、ヴィンターベアがなににインスパイアされ、どのようなアプローチをしているのかを検証しています。ぜひ!

『ある海辺の詩人―小さなヴェニスで―』 アンドレア・セグレ

これまでドキュメンタリー作品を発表してきたアンドレア・セグレ監督の劇映画デビュー作です。決して叙情的なだけの作品ではありません。要注目の監督です。すでにブログに、「単に社会的な要素を加味することと、すべて見えていながら滲ませるだけに止めることの違い」というタイトルで、レビューをアップしていますので、未読の方はぜひお読みください。→『ある海辺の詩人―小さなヴェニスで―』レビュー

レビューではキャストに言及しませんでしたが、ジャ・ジャンクー作品のミューズとして活躍してきたチャオ・タオ(ヒロインのシュン・リー役)と、『ビフォア・ザ・レイン』で忘れがたい印象を残したラデ・シェルベッジア(詩人と呼ばれる老漁師役)、すごくいいです。チャオ・タオは本作で、イタリア・アカデミー賞(ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞)の主演女優賞をアジア人女性として初めて受賞する快挙を成し遂げました。

『シャドー・ダンサー』 ジェームズ・マーシュ

ジェームズ・マーシュ監督の『キング 罪の王』がお好きな方には特にオススメの作品です。二作品の接点を掘り下げるようなレビューをすでにブログにアップしました。→『シャドー・ダンサー』レビュー

この作品のアンドレア・ライズブローの演技も素晴らしいです。

映画を観る前に、アイルランド紛争をおさらいしておきたい方は、筆者サイトの以下の記事が参考になるかもしれません。

アイルランド紛争の歴史と現在に向けられた4つの視点――ノンフィクションと小説、紛争の分岐点と世代や立場の違いをめぐって
アイルランド紛争を題材にしたフィクションの想像力――『The Serpent’s Tail』、『Of Wee Sweetie Mice and Men』、『Empire State』をめぐって
アイルランドの厳しい生活と家族の重さ――『アンジェラの灰』、『The Bucher Boy』、『Down by the River』をめぐって

『クラウド・アトラス』 ウォシャウスキー姉弟×トム・ティクヴァ

まずは『クラウド・アトラス』試写室日記をお読みください。そのなかでアモス・オズの言葉を引用して説明したように、物語の出発点はいいと思います。緻密な構成で、過去・現在・未来を一望する感覚も新鮮です。

ただ問題は物語の着地点ですね。転生を軸とした物語というのは、広がりを生み出すと同時に、限界も設定してしまうところがあります。結局は、人がどう変わるかという人を中心にした物語になり、その外には出られないということです。

たとえば、J・ベアード・キャリコットの『地球の洞察 多文化時代の環境哲学』(みすず書房)には以下のような記述があります。

とりわけ西洋の哲学は、文字どおり何千年ものあいだ、過激ともいえるほどの人道主義と人間中心主義の立場をとってきた。プラトンとアリストテレスにさかのぼるこの伝統に立つ哲学者のほとんどが、何によって「人間」が自然から区別されるのか、どうして「人間」だけに道徳的に配慮される資格が与えられるのかを突きとめようとしてきた。自然は「人間」のための支援体制や共同資源、あるいは人間のドラマが展開する舞台にすぎなかった。中国でも、道教の伝統はさておき、儒教の伝統は同じ程度に人道主義と人間中心主義の立場に立つものだった。またインドでは、哲学者たちは自然界に背を向け、自己探求と瞑想による超越という内的な世界に向かった。新たに現れてきた環境倫理学者たちは、哲学とい学問に受け継がれてきた人道主義と人間中心主義に異を唱えて、人間の位置を自然のなかに据えて、道徳的な配慮を人間社会の範囲を越えてひろく生物共同体まで拡大しようとした(もちろん、どこまで拡大するかという問題は現代でも環境哲学者のあいだの争点である)

この映画でも、自然は人間のドラマが展開する舞台からそれほど出ていないように思えます。

以下おまけのコメントです

『ひまわりと子犬の7日間』 平松恵美子

個人的に映画は突き詰めれば、なにを描くかではなくなにを描かないかだと思っています。“less is more”ということですね。そういう意味で、たとえば、犬の目線に立って、内面の変化を映像で丁寧に表現してしまうことにはあまり好感が持てませんでした。

だから筆者のテイストとは合わないのですが、それでも堺雅人の演技にはそういうテイストすら忘れさせてしまうような瞬間があります。さすがです。