ミハル・ボガニム 『故郷よ』 レビュー

Review

チェルノブイリの悲劇――故郷の喪失や記憶をめぐる複雑な感情を独自の視点から掘り下げる

昨年(2012年)公開されたニコラウス・ゲイハルター監督の『プリピャチ』(99)は、「ゾーン」と呼ばれるチェルノブイリ原発の立入制限区域(30キロ圏内)で生きる人々をとらえたドキュメンタリーだった。“プリピャチ”とは、原発の北3キロに位置する町の名前であり、そこを流れる川の名前でもある。

そのプリピャチを主な舞台にした女性監督ミハル・ボガニムの『故郷よ』は、ゾーンで撮影された初めての劇映画だ。物語は事故当時とその10年後という二つの時間で構成されている。

結婚式を挙げた直後に事故が発生し、消防士の夫を喪ったアーニャは、ゾーンのツアーガイドとなって故郷に留まっている。事故後に原発の技師だった父親が失踪し、別の土地で育った若者ヴァレリーは、故郷に戻って父親を探し回る。その父親は、もはや存在しないプリピャチ駅を目指して列車に揺られ、迷子になったかのように終わりのない旅を続けている。

ボガニム監督は当事者への入念なリサーチを行い、事故当時の模様やその後の生活をリアルに再現している。しかし、彼女が関心を持っているのは必ずしも原発の悲劇だけではない。


それは冒頭で触れたゲイハルターの『プリピャチ』と比較してみるとより明確になる(ちなみに、2月22日にDVDがリリースされたばかりだ)。この二作品には共通点が少なくない。まず設定だ。『プリピャチ』では事故から12年後のゾーンの世界が映し出される。それは『故郷よ』の一方の時間、事故から10年後という設定にかなり近い。だから、ドキュメンタリーとフィクションの違いはあっても、人物の立場や感情が重なる。

『プリピャチ』には、ジナイーダという女性が登場する。彼女は事故以前は、プリピャチに暮らし、そこにある環境研究所に勤務していた。いまはゾーンの外に住んでいるがプリピャチから完全に離れてはいない。外からバスで通い、いまも同じ研究所で働いているのだ。そんな彼女の生活や故郷への思いは、『故郷よ』のアーニャに非常に近い。

もうひとつ注目しなければならないのが、冷戦の終結という歴史の節目だ。事故後、ゾーンの外の世界では、冷戦が終結し、社会が大きな変貌を遂げた。一方、ゾーンの内側では、建物から標語までソ連時代がそのまま残されている。『プリピャチ』には、ジナイーダがかつての我が家を訪れる場面があるが、そこはまさにソ連時代のまま朽ち果てている。

一方、ミハル・ボガニム監督は、『故郷よ』に映し出されるレーニンの銅像やゴルバチョフの肖像画などについて、プレスに収められたインタビューで以下のように語っている。

レーニンの銅像は、あちらこちらにあるんです。彼は改革の一端を担った人間であることは間違いありません。もとは、レーニンが全国に電力をと考え、作られたのがチェルノブイリ原子力発電所なのです。そしてゴルバチョフは、事故があった当時の政権に就いていた人物です。チェルノブイリの象徴、またはそれを引き起こした共産主義の象徴として映しこみました

二作品では、ジナイーダやアーニャという人物を通してみると、原発事故とソ連の崩壊という二重の喪失が浮かび上がる。そして、その部分から二作品の違いも明確になる。

ジナイーダは深い喪失感を抱え込みながら生きている。しかし、ゲイハルター監督は、人物に感情移入することなく、彼らの日常としてのゾーンの現実を浮き彫りにする。

ミハル・ボガニム監督の場合は違う。そこに、彼女が現実を劇映画として表現する意味がある。彼女は、登場人物たちに感情移入する。特に、彼らが抱える深い喪失感に共鳴している。

そこには、イスラエルで生まれ、レバノン戦争のために幼くして家族とパリへの移住を余儀なくされたボガニム監督の個人的な体験の記憶と喪失感も投影されているに違いない。つまりこの映画では、故郷の喪失や記憶をめぐる複雑な感情が、独自の視点から掘り下げられているのだ。

(初出:月刊「宝島」2013年3月号、加筆)