アピチャッポン・ウィーラセタクン 『ブンミおじさんの森』 レビュー

Review

私たちはブンミによって現世と他界の境界に導かれる

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『ブンミおじさんの森』には、常識では計り知れない出来事が起こる。だが、それを単純にファンタジーと表現してしまうと、何か大切なものが抜け落ちてしまうように感じる。

死期を悟ったブンミは、森の奥へと分け入り、洞窟の深い闇のなかで、自分がそこで生まれたことを思い出す。「生きているうちは思い出せなかったが」と語る彼は、すでに死者の側から世界を感知している。私たちはブンミによって現世と他界の境界に導かれている。そこで思い出されるのは「山中他界観」だ。


宗教学者の宮家準は、死後の世界としての山をこのように説明している。「日本の民俗語彙では、死者を埋葬する葬地を「ヤマ」と呼んでいる。(中略)高知市の近辺では、出棺にあたって会葬者に「山行き、山行き」とふれている。これは死後肉体を離れた霊魂が山に行くと信じられていたことを示している。老年に達したり、死がせまった人を山に送りこむ「ウバステ」の伝承も認められた」(『霊山と日本人』)

山に赴いた霊魂はやがて私たちのところに戻ってくる。「子孫の丁重な供養を受けて、三十三年忌を終えた祖霊は浄化して祖神となり、里の奥の山宮に祀られている山の神と融合した。そして子孫の稲作を守るために春には里に降臨して、山麓の神社に祀られた。これが氏神である。この氏神はさきに述べたように、子孫に子供を授けることから産土神ともいわれている」(前掲同書)

この山中他界観を通して、日本と東南アジアを結ぶことは難しいことではない。東南アジアでフィールドワークを行ってきた文化人類学者の岩田慶治は、東南アジアの最高峰であるボルネオ島のキナバル山についてこのように説明している。

「キナバルとは、あの世の山ということです。この辺の人は、死ぬと魂がこの山に登っていく、花崗岩のごつごつした山ですが、そこへ死んだ人が登っていくというのです。そこが死者の国で、死者はそこで何年かを過ごしてから、また戻ってくる。死者の魂はまず赤い花になって咲き、村の若い女性がその花を摘んで、食べる。魂は、この花を食べた女性の子どもとなって生き返る。魂があの世とこの世を往復する、そういう考えなのです」(『死をふくむ風景』)

『ブンミおじさんの森』には、ブンミとジェンがタマリンドとトウモロコシの味がする蜂蜜を舐める場面がある。ブンミの魂はいつか、その蜂蜜を食べた女性の子どもとなって甦るのかもしれない。

かつて生と死、この世とあの世は表裏一体の関係にあった。しかし、近代化のなかで死は、当事者とその家族が制御するのではなく、病院や医者の手に委ねられるようになった。その医療では生かすこと、生を管理することが優先され、死は絶対悪とみなされた。アメリカで『人間らしい死にかた』を出版し、そんな風潮に一石を投じた医師シャーウィン・B・ヌーランドは、「本当のところ、死とは対決ではない。それは単に自然の進行のリズムに添った出来事にすぎない」と書いている。

『ブンミおじさんの森』には、近代化や都市化、開発などによって確実に失われていく世界観が描き出されている。しかし、ウィーラセタクンは、かつて存在した伝統を忠実に再現して、そこに回帰し、伝承しようとしているわけではない。この映画で最も重要なのは、「アニミズム」に対する独自の視点と表現だ。宗教の起源ともいわれるアニミズムとは、自然界のあらゆる事物に霊魂が宿っていると信じることだ。

私たちはそういう考え方を頭で理解し、ロマンを感じることもできるが、それはウィーラセタクンが求めているものではない。彼は映画の冒頭から、森や里山の映像と鳥や虫の鳴き声や羽音、草木やせせらぎや風が生み出すざわめきが一体となった空間に私たちを誘う。そこには目には見えないもの、闇に潜むものの気配が漂い、私たちはこれまで体験したことがないような映像世界に驚きを覚える。

その驚きの意味を説明してくれるのが、文化人類学者の田辺繁治が書いた『「生」の人類学』だ。彼は序章で、先に引用した岩田慶治のアニミズムとは「生の驚き、生の連続性について「自ら」が直接経験することだ」とする考え方に触れた後でこのように書いている。

「生の直接経験としてのアニミズムとは、日常的に正常と思っている整合的、因果的な秩序では理解できない出来事や事物、自然に出会ったときにわれわれの前にあらわれる。たとえば、森のなかで精霊に出会ったとき、あるいは草むらのなかで動物の目が光ったときの驚きなどに、アニミズムのもっとも原初的な姿をみることができるだろう」

この文章を読めば誰もが『ブンミおじさんの森』の映像体験を連想することだろう。但し、この映画のアニミズムは、フィールドワークによって確認されたものではなく、ウィーラセタクンのイマジネーションから生み出されたものである。その違いは、人間と動物の関係や距離に表れている。

ブンミはかつて水牛であったのかもしれない。彼の息子のブンソンは、不思議な生き物の存在に魅入られ、いつしかその仲間になっていた。ジェンの父親は、軍の命令で森に行き、人の代わりに動物を狩り、動物の言葉がわかるようになるまでずっと森にいたという。ブンミの前世であるかもしれない王女はナマズと交わり、ナマズに姿を変える。

ウィーラセタクンは、人間と動物の境界を消し去る。アニミズムは神話という形で表現されてきたが、中沢新一によれば、各地の神話のなかでも古い要素の残存が感じられるものでは、人間と動物の間に壁がなく、ひと繋がりのものとして語られているという。では、なぜウィーラセタクンは、そんなより原型に近い神話に引かれるのか。それは都市型の文化と社会が人間と自然の関係をどう変えたのかがわかれば、自ずと明確になるだろう。中沢新一はこのように書いている。

「その結果、人間と動物の間には飛び越えることのできない深い溝が穿たれ、高い隔壁が築かれ、動物たちの心が何を感じ、何を望んでいるかということにたいして、ほとんど感受性を失った社会が形成されてきたのである。とりわけ食料となる家畜動物たちの心の内面にたいしてまったく無感覚でいられるための思考のメカニズムが、組織的に発達してくるようになった。ここからは、あらゆるタイプの他者にたいしての想像力の欠如を組織化した、無慈悲な世界が形成されてくるまで、あと一歩である」(『動物観と表象』所収「対象性の思考としてのアニミズム」)

タイではこの40年弱の間にクーデターが4回も起こり、決して政情が安定しているとはいいがたい。『ブンミおじさんの森』のブンミは、死の間際に未来を訪れ、独裁者に支配された都市を目の当たりにする。だからこそウィーラセタクンは、映画のなかに独自のアニミズムの世界を切り拓き、他者に対する豊かな想像力を喚起しようとするのだ。

《参照/引用文献》
●『霊山と日本人』宮家準(NHK出版、2004年)
●『死をふくむ風景 私のアニミズム』岩田慶治(NHK出版、2000年)
●『人間らしい死にかた』シャーウィン・B・ヌーランド 鈴木主税訳(河出書房新社、1995年)
●『「生」の人類学』田辺繁治(岩波書店、2010年)
●『動物観と表象』奥野卓司、秋篠宮文仁・編著(岩波書店、2009年)

(初出:『ブンミおじさんの森』劇場用パンフレット)

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