ダニー・ボイル 『127時間』 レビュー
予期せぬ事故に遭ったとき、
人はなにに目覚めるのか
ダニー・ボイルの新作『127時間』は、アーロン・ラルストンが自らの体験を綴ったベストセラーの映画化だ。主人公アーロンは、ユタ州のブルー・ジョン・キャニオンでいつものように週末のロッククライミングを楽しんでいた。ところが、不安定な岩塊とともに落下し、断崖と岩塊に右腕をはさまれ、無人の荒野で身動きがとれなくなってしまう。それから127時間、岩塊と格闘しつづけた彼は、生きるための決断を下す。
ボイルはこれまで様々な設定を通して人間のエゴを掘り下げてきた。『シャロウ・グレイヴ』(95)の三人の主人公は、それぞれに安定した仕事につき、洒落たフラットをシェアし、他人を見下している。だが、彼らの生活レベルを遥かに上回る大金が転がり込んできたことから、やがて騙し合い、殺し合うことになる。『28日後…』(02)の主人公たちは、ウイルスが蔓延する世界のなかでサバイバルを余儀なくされる。だがやがて、感染が生み出す恐怖を人間のエゴが凌駕していく。
そうしたエゴは自然との関係にも表れる。『ザ・ビーチ』(00)の登場人物たちにとって、タイの孤島にある秘密の楽園に暮らすことは、快楽を追求することを意味している。彼らが求めているのは自然だけではない。テレビゲームの乾電池や不快な臭いを消すための石鹸、消臭剤なども必要とする。彼らは生活をコントロールし、苦痛や不安や恐怖を排除する。
たとえば、サメに襲われて負傷した場合、その仲間は「治る」か「死ぬ」の二者択一を迫られる。楽園の住人は、仲間の死は受け入れられるが、苦しみつづける仲間との共同生活には耐えられない。だから彼を追い出してしまう。また、別の理由でジャングルに置き去りにされた主人公リチャードは、孤独や恐怖を消し去るために、現実をゲームの世界に置き換えようとする。
『127時間』におけるアーロンと自然の関係は、この『ザ・ビーチ』の世界と無関係ではない。アーロンもまた、ユタ州の荒野という楽園のなかで、状況をコントロールし、快楽を追及している。冒険と孤独を愛する彼は、誰にも行き先を告げずに出発し、マウンテンバイクに装着したビデオカメラで快走を記録し、ヘッドフォンで好きな音楽を聴きながら軽やかに切り立った岸壁を踏破していく。ところがそこに予想もしない事故が起こる。
この人間と自然に対するボイルの視点は、同じように実話を映画化したショーン・ペン監督の『イントゥ・ザ・ワイルド』(07)と対比してみると、その違いがより明確になるだろう。
『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公クリスは、大学を卒業すると貯金をみな寄付し、家族に何も告げずに旅立つ。物質主義と決別し、真の自由を求める彼は最終的にアラスカにたどり着き、孤独な生活を始める。この主人公に影響を及ぼしているのは、ヘンリー・D・ソローの『森の生活』だが、そこには以下のような記述がある。
「ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ。(中略)ぼくは深みのある生活をし、人生の真髄をすべて吸収し、生活でないものはすべて払いのけられるようにたくましく、スパルタ人のように生き、広く根もとまで草を刈って生活を追いつめ、それを限界まで煮つめ、もしそれがみじめなものだったらそのみじめさをありのままつきとめて広く世に知らせたいと思ったのだ」
『127時間』のアーロンが自然に求めているのは、人生の本質的な事実ではなく快楽だ。しかし、予期せぬ突然の事故で状況が変わる。『ザ・ビーチ』を踏まえるなら、彼は状況をコントロールする力を失い、「治る」と「死ぬ」の狭間で自分と向き合うことになる。その結果、彼はなにに目覚めるのか。
これは事故とその顛末をリアリズムで表現するような作品ではない。ボイルはアーロンのなかで世界観や人生観がどのように変化していくのかを見つめる。人によってはソローの引用にあるような自然に覚醒する可能性もあるが、アーロンの場合は違う。
自然については、岩塊が大昔からずっと自分を待ち受けていたというような妄想を抱くに過ぎない。彼の意識は目の前の自然から遠く隔てられた日常へと飛ぶ。家族や別れた恋人のことを思い出し、自己中心的な人生を送ってきたことを後悔する。『ザ・ビーチ』の主人公が現実をゲームの世界に置き換えたように、テレビのトークショーのゲストを演じる。
この映画の冒頭と終盤では、群集がひしめく通勤ラッシュやスポーツ観戦の映像とかつて荒野に暮らした人々が残した壁画の映像がさり気なく対置されている。アーロンが生還を果たすことは、自分がどこで誰と生きるのかを明らかにすることでもあるのだ。
《参照/引用文献》
●『森の生活―ウォールデン』ヘンリー・D・ソロー 真崎義博訳(JICC出版局、1989年)
(初出:「キネマ旬報」2011年6月下旬号)
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