マルガレーテ・フォン・トロッタ 『ハンナ・アーレント』 レビュー

Review

絶対的無罪と絶対的有罪の鏡を砕くための揺るぎない思考

ニュー・ジャーマン・シネマを牽引してきた女性監督マルガレーテ・フォン・トロッタの『ハンナ・アーレント』では、ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの生涯のなかで、1961年に行われたナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判に前後する4年間のドラマが描き出される。

強制収容所を体験しているアーレントは、自らの意志でアイヒマンの公判を傍聴してレポートを「ニューヨーカー」誌に連載し、その後『イェルサレムのアイヒマン』にまとめた。彼女の目に映ったかつてのナチス親衛隊中佐は、怪物や悪魔ではなく平凡な人間だった。

ちなみに、10数年前に公開されたエイアル・シヴァン監督の『スペシャリスト 自覚なき殺戮者』は、アーレントのこの著書をもとにアイヒマン裁判の膨大な記録映像を編集したドキュメンタリーだった。その作り手たちは、エチオピアの飢饉やルワンダのジェノサイド(「隣人による殺戮の悲劇――94年に起ルワンダで起こった大量虐殺を読み直す」参照)という同時代の現実を踏まえた上でアイヒマンに着目した。


この映画ももちろん現代に繋がるそんな視点を共有しているが、当時はまだアーレントの言葉が冷静に受け止められるような時代ではなかった。彼女は思考を放棄したアイヒマンを“悪の凡庸さ”と形容すると同時に、ユダヤ人評議会の指導者が強制収容所移送に手を貸したことにも触れたために、多方面から激しいバッシングを浴び孤立を余儀なくされる。

映画のなかで、アーレントが書き上げた原稿を読んだ「ニューヨーカー」の編集者は、ユダヤ人評議会に関する記述を憂慮するが、彼女は譲ることなく、そのまま掲載される。マルティーヌ・レイボヴィッチの『ユダヤ女 ハンナ・アーレント』で詳述されているように、アイヒマン裁判が終わってから、アーレントがより強く意識するようになったのは、アイヒマンのような犯罪者だけではなく、犠牲者においても道徳性が崩壊していたことだった。

『イェルサレムのアイヒマン』を批判する評者たちは、ユダヤ人評議会の成員は多くの場合誠実な人物で彼らなりに全力を尽くしたと指摘することで彼らを弁護した。だが、その全力を尽くしたということが、他に選択肢がなかったことを意味するのであれば、自分には選択の余地がなかったと主張するアイヒマンの言葉も受け入れることになるだろう。

では、残された選択肢とはなんなのか。レイボヴィッチはアーレントの言葉も引用しつつ、以下のようにまとめている。

世界のために何もできない場合でも、もはや政治的責任が存在しない場合でも、道徳的責任というものが残っていて、それはこう言い表されうる。「私はこの世界に何も求めない。何にも関与しないし、参加もしないだろう。残っているのはもはや生そのものとその純粋な現存在だけである」

しかし、犯罪者と犠牲者という強固な図式によってそのような思考は排斥される。アーレントが父親のように慕っていたシオニストのクルトは、彼女に対する失望を隠さず、ともに哲学を学んだ旧友は袂を分かち、イスラエル政府は出版を中止するように圧力をかけてくる。大学は彼女に辞職を勧告し、誹謗中傷の手紙が続々と舞い込む。レイボヴィッチはこのようにも書いている。

ユダヤ民族がそのような犯罪の犠牲者であるとしても、ユダヤ人が対ナチズムの糾弾行動を立ち上げようとするそのやり方は、当のナチズムによって遺贈された呪いを永続化させかねないからだ。アーレントによれば、糾弾は、有罪の民族に対する無罪の民族として発せられる必要はなく、「地上のあらゆる民族」の名の下で、あるいは人類の尊厳の名の下で発せられるべきなのだ。地上のすべての民族がこのように現前して、ユダヤ人によって起こされた糾弾を支持することで、すでにして絶対的無罪と絶対的有罪の鏡は砕かれる

アーレントが四面楚歌ともいえる逆境に追いやられたのを知っていることと、非常にリアルに再現された当時の状況を目の当たりにすることはまったく違う。彼女は自分の思考と言葉の強度を見極めるために、あえて誤解を招くような表現を盛り込んだのではないかとすら思えてくる。この映画を観てから『イェルサレムのアイヒマン』を読み返したら、その言葉の重さがひしひしと伝わってくるに違いない。

《参照/引用文献》
●『ユダヤ女 ハンナ・アーレント』マルティーヌ・レイボヴィッチ 合田正人訳(法政大学出版局、2008年)

(月刊「宝島」2013年11月号、加筆)