『演劇1』 『演劇2』 (観察映画 第3弾・第4弾) 試写

試写室日記

本日は試写を2本。

『演劇1』『演劇2』 想田和弘

“観察映画”という独自の発想とスタイルでドキュメンタリーに新風を吹き込み、注目を集めている想田和弘監督の待望の新作。題材は、平田オリザと青年団。今回はなんと1本ではなく2部作(しかも上映時間がそれぞれ2時間52分と2時間50分)として完成。

想田監督はこれまでに『選挙』『精神』『Peace』という3本の観察映画を発表しているが、『Peace』が観察映画番外編という位置づけだったので、今回の2部作が第3弾と第4弾ということになる。

この新作にはこれまでの作品とは異なる点がいくつかあるが、ここではそのひとつに触れておこう。観察映画では、想田監督は撮影をする前にリサーチをしない。先入観に縛られることなく、まずは観察に徹し、テーマのようなものは後から見えてくることになる。たとえば『精神』のレビューを読んでいただければ、そこらへんのところがよくわかると思う。


新作の場合は、その前提に違いがある。プレスに収められた想田監督の文章によれば、彼はは平田オリザ率いる青年団のニューヨーク公演を観て衝撃を受けた。そして二度目に公演を観たときに、「上演会場で売っていた平田の著書を数冊買い込み、むさぼるように読んだ」という。

もちろんそれは映画のためのリサーチではない。しかし、少なくとも想田監督の頭のなかに、平田の方法論、組織論、世界観に関する情報が入ってしまっている。では、撮影にあたってそれをどう処理するのか。プレスではこのように説明されている。

「撮影することが決まってからは平田の著書を読むことを自らに禁じ、なるべく内容も忘れて、目の前に展開する現実から虚心に学ぶことを心がけた」

筆者が想像するに、それは決して簡単なことではない。だが、その課題をクリアしなければ観察映画にはならないのではないか。

結果からいえば、2部作は見事に観察映画になっていた。詳しいことはあらためて書きたいと思うが、ここでは別のたとえでそれを説明したい。

ラース・フォン・トリアーがはじめた“ドグマ95”は、“純潔の誓い”という十戒を守って映画を作ることによってドグマ作品になっていた(ドグマ95については、「ドグマ95から広がるネットワーク――ラース・フォン・トリアーの新たな試み」をお読みください)。

しかし、作り手のなかでなぜその十戒が必要であったのかが明確になれば、それを守らなくても本質的にドグマといえる作品は作れる。というよりも、そうしなければいずれ十戒が形骸化し、進化できない。

そういう意味では、『演劇1』『演劇2』には、観察映画の進化形を見ることができる。