クリスティアン・ムンジウ 『汚れなき祈り』 レビュー



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Review

現代ルーマニア社会を炙り出すムンジウの視線

クリスティアン・ムンジウ監督の新作『汚れなき祈り』は、実際に起きた事件に基づいているが、その忠実でリアルな再現ではない。私たちがこの映画に深く引き込まれるのは、ムンジウ監督の独自の視点と表現が、単なるリアリズムとは一線を画す世界を切り拓いているからだ。

それがどんな視点と表現であるのかは、カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いた前作『4ヶ月、3週と2日』と対比してみることでより明確になるだろう。なぜなら、二作品は時代背景が異なるにもかかわらず、興味深い接点があるからだ。

『4ヶ月、3週と2日』では、1987年というチャウシェスク独裁の時代を背景に、寮のルームメイト、ガビツァの違法な中絶手術を成功させるために奔走する大学生オティリアの一日が描き出される。この映画で最も印象に残るのは、ホテルの一室でオティリアとガビツァ、そして闇医者が向き合う場面だろう。

ムンジウ監督は、鋭い洞察によって三者の微妙な力関係を浮き彫りにしていく。まずガビツァが、友人の不確かな情報を真に受け、妊娠の時期や手術料などについて、嘘をついていたり、憶測で判断していたことが明らかになる。一方、闇医者は相手の弱みにつけ込み、権力を振りかざし、ガビツァだけではなくオティリアにまで理不尽な要求を突きつける。そして、閉ざされた空間で巻き添えとなったオティリアは、大きな犠牲を払うことになる。そんな緊迫した状況を、ワンシーン・ワンカットの長回しで見事に切り取っているのだ。


では、友人のためとはいえ、オティリアはなぜそこまでするのか。ムンジウ監督が関心を持っていたのは、必ずしも中絶の問題ではない。チャウシェスク政権は、非道な人口増加政策を国民に強要した。それは人間が、労働力を確保し、国力を高めるための道具にされていることを意味する。中絶を成功させることは、そんな体制に対して彼女ができる最大限の抵抗ともいえる。

さらにもうひとつ、この映画には重要な場面がある。それは、オティリアがホテルを抜け出して駆けつけるボーイフレンドの母親の誕生会だ。母親の友人たちは医者や化学者で、オティリアの両親の職業について、暗に蔑むような発言をする。ボーイフレンドも彼女を庇おうとはしない。この場面は、単に階層をめぐる差別意識を表現しているだけではなく、チャウシェスクの政策と関わりがある。

チャウシェスクは個人崇拝を強要し、一族で権力を独占し、国を疲弊させたにもかかわらず、なぜ政治生命を維持することができたのか。政治学者ジョゼフ・ロスチャイルドの『現代東欧史』には、以下のような記述がある。

それでもチャウシェスクは一九八〇年代末まで清算を免れた。これは、社会を黙らせて個々ばらばらにし、教会の弱さと従順を利用し、労働者と農民、労働者とインテリゲンチア、ルーマニア人と少数民族(おもにハンガリー人とロマ)、軍と警察、国家機構と党機構、これら官僚と自分の一族、その他を相互に、またそれぞれの内部で反目させる、彼の戦術の巧みさのおかげだった

そんな社会のなかでは、弱者が孤立していく。だからこそオティリアは最後までガビツァを見放そうとはしないのだ。つまり、ムンジウ監督は、限られた登場人物たちのドラマを通して、実に巧妙に時代や社会を浮き彫りにしているのだ。

では、現代のルーマニアを背景にした新作『汚れなき祈り』の場合はどうか。共産主義体制が終わりを告げたあとには、新たな精神的な支柱が求められる。そこで、これまで衰弱し、組織を欠いていた教会が復活を遂げる。それはもちろん悪いことではない。しかし、この映画に描き出される修道院には、そんな新たな希望のようなものは感じられない。この修道院だけが特殊なのだろうか。実話に基づいているのだから、特殊と考えるほうが自然かもしれない。しかし筆者には、ムンジウ監督が特殊という認識でこの修道院を描いているようには見えない。

流血の革命によって独裁者が倒されたとなれば、その後は一気に民主化が進むように思われる。だが、実際にはそうではなかった。ロスチャイルドの前掲同書では以下のように説明されている。

しかし、権力の集中と特権の構造はチャウシェスクの没落ののちまでしぶとく生き延びた。強制、恐怖、疑惑、不信、離反、分断、超民族主義といった政治文化がルーマニアで克服されるまでには長い時間が必要である。結局のところこうした文化は、半世紀にもおよぶ共産主義支配によってさらに強化される前から、すでにルーマニアの伝統となっていたからである

この映画は、明らかにそんな現実と無関係ではない。ドラマからは、前作と同じように、ヴォイキツァとアリーナというふたりの若い女性と権力を持つ神父という男性の三角形が浮かび上がってくる。そして、ムンジウ監督が鋭い洞察と長回しのカメラワークで、三者の力関係を掘り下げていくとき、特殊に見えた世界は普遍性を獲得し、現代ルーマニア社会の縮図となっていく。

その三者のなかでまず注目したいのが神父だ。ヴォイキツァはアリーナに彼が30歳くらいだと説明するが、とてもそうは見えない。神父を演じるヴァレリウ・アンドリウツァは1967年生まれなので、それも当然だ。にもかかわらずムンジウ監督はなぜ彼を起用したのか。この俳優がムンジウ作品の常連だからという安易な理由ではないだろう。

筆者は、この閉ざされた修道院で生きる修道女たちには若い神父がそのように見えていると解釈した。発電所で働いているときに天使を見たという彼には、聖職者としての修練を積む時間などなかったはずだが、教会の衰弱という空白が彼に権力をもたらし、威厳があるかのような幻想を生み出しているということだ。

一方、ヴォイキツァとアリーナについては、アリーナが孤児院からドイツに行き、残されたヴォイキツァが孤独に苛まれ、修道院を選択した意味を考える必要がある。彼女たちの視点に立つと、孤児院や修道院の外にルーマニアの社会など存在していないかのように感じられるはずだ。だからこそ、閉ざされた修道院のなかで、三角形の力関係に呪縛されていくことになる。

精神を病んでしまう人には、正直すぎて嘘がつけないタイプが少なくないが、アリーナはそういう人間に見える。だから神父が裸の王様であることを暴き、悪魔憑きにされてしまう。だが、神父もおそらくは悪魔祓いを望んでいたわけではない。それを最初に口にするのは修道女長であり、ひとたびその言葉が放たれてしまうと、神父もまた三角形から逃れられなくなってしまうのだ。

それでは最後に、あえて後回しにしたことについて考えたい。ヴォイキツァとアリーナはなぜ外にある社会にまったく居場所を見出せないのか。ある意味では、そのことこそが悲劇の出発点といえるわだが、ムンジウ監督は映画のなかでその答えを示している。

ヴォイキツァがドイツに行く書類を申請する場面では、担当者が彼女に対応する一方で、妻と愛人が呪いで夫を奪い合う世間話に応じている。病院の医師は、アリーナが神や罪に拒絶反応を示したことも確認せずに、聖書を読ませることを勧める。さらにラストでは、神父やヴォイキツァを検事のもとに移送する警官たちが、深刻な事態に陥っている人間が真後ろにいるにもかかわらず、母親を刺した息子が死体写真をネットに上げた事件の話をしている。そんな外の世界には、ロスチャイルドが指摘するところの“ルーマニアの伝統”を見ることができる。

そして警官は最後に、「いつまでこの冬がつづくかな」と語る。その言葉は、季節のことだけを意味しているわけではない。誰もがお互いに無関心である限り、冬の時代が終わりを告げることはないだろう。

《引用/参考文献》
●『現代東欧史 多様性への回帰』ジョゼフ・ロスチャイルド 羽場久ミ(さんずいに尾)子・水谷驍訳(共同通信社、1999年)

(初出:『汚れなき祈り』劇場用パンフレット)