ケイト・ショートランド 『さよなら、アドルフ』 レビュー

Review

ナチス・ドイツ時代の少女の物語に自分の世界観を反映して

■デビュー作から8年の歳月を経て■

オーストラリアの女性監督ケイト・ショートランドにとって2作目となる『さよなら、アドルフ』の舞台は1945年春、敗戦直後のドイツだ。ナチス親衛隊だった父と母を連合軍に拘束された14歳の少女ローレは、妹のリーゼル、双子の弟のギュンターとユルゲン、まだ赤ん坊のペーターを従え、900キロ離れた北部のハンブルクにある祖母の家を目指し、荒廃した国内を縦断していく。

ナチスの関係者はたとえ子供であっても冷たくあしらわれる。そんななか、飢えや病で窮地に立つ彼らに救いの手を差し伸べたのは、トーマスというユダヤ人の青年だった。

ショートランド監督は2004年に発表したデビュー作『15歳のダイアリー』でオーストラリア映画協会賞を総なめにした。

この映画では、母親の恋人を誘惑しているところを見つかり、家を飛び出した15歳の少女ハイジが、当てもなくたどり着いたスキーリゾート地で自活し、傷つきながら成長を遂げていく。本格的に映画作りを学ぶ前に大学でファインアートと歴史の勉強をしていたショートランドは、ナン・ゴールディンやゲルハルト・リヒター、ビル・ヘンソンらの作品を意識し、手持ちカメラを駆使した映像によって、孤独と欲望の間を不安定に揺れる少女の世界を鮮やかに浮き彫りにしてみせた。

このデビュー作と本作には共通点がある。『15歳のダイアリー』の冒頭では、風に揺れる洗濯物の隙間に少女の姿が垣間見られ、『さよなら、アドルフ』では、髪を洗って窓辺に立つ少女の後姿がレースのカーテンの向こうに浮かび上がる。ヒロインたちのそんな曖昧な輪郭は、彼女たちが現実の真っ只中に放り出されることによって明確にされていく。どちらの作品でも少女のイニシエーション(通過儀礼)が独自の美学で描き出される。


だが、二作品における少女の変貌を単純に結びつけることはできない。本作には、ホロコーストを題材にしたレイチェル・シーファー『暗闇のなかで』という原作がある。ショートランドは原作に惹かれた理由をプレスで以下のように語っている。「私の夫はドイツ系ユダヤ人で、彼の一族は1936年にベルリンを離れました。だからこの物語は私にとって身近でした」

シーファーはドイツ系だが、イギリス育ちで、原作は英語で書かれていた。ショートランドはまったくドイツ語が話せなかったが、リアリティにこだわり映画をドイツ語で撮るという条件を譲らなかった。

もちろんそれらは重要な要素ではあるが、筆者が注目したいのは、デビュー作から新作が完成するまで8年もかかっていることだ。実はショートランドは、デビュー作で成功を収めたあとメディアに注目されることに疲れ、映画作りから遠ざかり、家族に目を向けていた。しかし彼女にとってそんな生活は、創作と無関係ではなかった。

彼女の夫は、『Jewboy』や『The Tall Man』といった劇映画やドキュメンタリーで、ゲイやユダヤ人、アボリジニといったアウトサイダーの立場から現実を掘り下げる映像作家トニー・クラヴィッツだ。

ショートランド自身も、以前からアボリジニのための教育施設で教師を務めたり、最近ではオーストラリアが実際には多民族社会になっているにもかかわらず、白人社会であるかのような幻想がテレビなどで流通していることを批判するなど、共通する関心を持っている。そんな夫婦はしばらく母国を離れて南アフリカで過ごし、ボランティア活動に参加し、二人の子供を養子にした(詳しいことはわからないが、クラヴィッツの一族はベルリンを離れたあと、南アで暮らした時期があったようだ)。

そして昨年、それぞれにクリストス・ツィオルカスの同名小説を映画化した『Dead Europe』と『さよなら、アドルフ』という監督作で注目を集めることになった。

■権力にいかに向き合うか■

ショートランドのこの新作には、彼女が培ってきた多文化主義的ともいえる世界観が凝縮されている。原作の『暗闇のなかで』には戦中、戦後、現代を背景にした三つの物語が収められているが、彼女が最初に映画化を切望したのは現代を背景に、三十歳の教師が武装親衛隊だった祖父の足跡をたどろうとする最後の物語だった。

だから少女のイニシエーションが不可欠であったわけではない。そして妥協して二番目の「ローレ」を選択したわけでもない。彼女は少女の物語に自分の世界観を反映する可能性を見出した。

ドイツ語で撮られたドラマはリアルなだけではない。ローレの年齢は12歳から14歳に変更され、肉体や性的な要素が強調されている。さらに彼女とユダヤ人のトーマスは、原作にはない重い罪を犯す。そんな脚色によってローレとトーマスは、時代や状況に縛られない象徴的な存在にもなる。

私たちは最後にふたりが、まるで鏡に映る自分を見るように似た者であったことに気づく。彼らは自分を隠し、偽らなければ生き延びられないような状況のなかで、自分が何者なのかもわからなくなっている。ショートランドは、そんなふたりが見つめ合い、触れ合うことでなにを感知するのかを見極めようとする。

そこで重要になるのが権力の表現だ。この映画では、ふたりの老女が権力を象徴している。現実を受け入れない彼女たちは、威厳と恫喝で子供たちを掌握しようとする。

ローレが最初にそんな権力と向き合ったとき、彼女は怯えて逃げ出すが、最後に同じ状況が再現されたときには、本能を剥き出しにするようにある行動をとる。彼女を突き動かすのは、トーマスとの触れ合いを通して感知されたなにかだといえる。この映画が時代を超えて現代に強く訴えかけてくるのは、そんな象徴的な表現が埋め込まれているからに他ならない。

(初出:「キネマ旬報」2014年1月下旬号)