ハーモニー・コリン 『スプリング・ブレイカーズ』 レビュー

Review

アメリカン・ドリームに眠りはない

ハーモニー・コリンの新作『スプリング・ブレイカーズ』は、夢についての映画だ。それもただの夢ではなく、“アメリカン・ドリーム”についての映画といえる。

女子大生のフェイス、キャンディ、ブリット、コティは、刺激のない大学生活にうんざりしている。他の学生たちはスプリング・ブレイク(春休み)を思い思いに過ごそうとしているのに、彼女たちには先立つものがなく、どこにも行くことができない。

そこで、おもちゃの銃でダイナーを襲い、奪った金でフロリダに向かい、ビーチでパーティ三昧の楽しいときを過ごす。だが、調子に乗りすぎて警察に捕まってしまう。

そんな彼女たちに救いの手を差し伸べるのが、エイリアンを名乗るドラッグディーラーだ。プールつきの豪邸に彼女たちを案内したエイリアンは、アメリカン・ドリームを連呼する。そして、4人のヒロインたちは、そのアメリカン・ドリームをめぐって異なる道を選択していくことになる。


では、そもそもアメリカン・ドリームとはなんなのか。トッド・ギトリンの『アメリカの文化戦争』を参考にするなら、多民族の集団であるために、過去に共通性を求められない国民が、未来に思いを託して見る夢だといえる。

本書には、ウォルター・リップマンのこんな言葉が引用されている。「アメリカを統一するものは過去に対する憧れや畏敬ではなく、確かな目的意識と子孫にもたらす運命の強い自覚である。アメリカは常に国家であると同時に夢でもあった

そのあとにつづくギトリンの記述もなかなか興味深い。「国家を「夢」といった実体のないものと同一視することは全く例外的なことである。夢は何ものかを喚起し、照らし出し、美しく、恐ろしくもある。しかし夢は既成事実では決してあり得ない。証明すべき実体をもたない。ただ修正だけがきく。もともと曖昧なものであるがゆえに、いろいろに解釈されるようにできている。夢とはあらゆる経験の中で最も個人的で不可視的なものである。それでリップマンの言葉を言い換えると、アメリカは未だ存在せず、目下のところ人間が集団で抱く期待である、ということになる。だがそういう期待感はどのようにして実感されるのであろうか

過去にはそれを実感できる時代もあったかもしれないが、現在では限りなく実感から遠いものになっているといえる。

ジョセフ・E・スティグリッツは『世界の99%を貧困にする経済』で、アメリカン・ドリームの実態について以下のように書いている。「もちろん、惜しみない努力の末に、底辺から頂点へ這い上がった有名人はいるが、彼らはあくまで例外にすぎない

『スプリング・ブレイカーズ』の4人のヒロインたちは、99%の世界に生き、スプリング・ブレイクの間だけ楽しい夢を見るつもりだった。ところが、エイリアンの出現で、彼女たちの夢にズレが生じるようになる。

そのエイリアンの世界は、逆さまのアメリカン・ドリームといえないこともない。彼は黒人のコミュニティで育ち、かつての親友もドラッグディーラーとして成功を収めている。だが、彼らは共通の夢を見ているわけではない。手段を選ばず、奪い合うのが、彼らのアメリカン・ドリームであるからだ。ちなみにこの映画の前半には、公民権運動をテーマにした授業の場面がある。

この映画で監督のコリンが夢を意識していることは、大筋とは関係のないディテールからも察せられる。それは、フェイスとコティが、それぞれにアメリカン・ドリームから離脱し、帰郷する場面だ。バスに乗り込んだ彼女たちは、最初はぼんやりと窓の外を見ている。そして次の瞬間には、同じように二人分の座席に身を横たえ、眠りについているのだ。

最後までアメリカン・ドリームを生きることに決めたキャンディとブリットにはそんな眠りはない。彼女たちはいつも水着姿で、銃を手にしてはじけつづける。おそらく眠りは死とともに訪れることになるだろう。

この映画でコリンが独自の視点と表現で描き出しているのは、アメリカン・ドリームの現在、あるいは眠りのない夢の世界なのだ。

《引用文献》
●『アメリカの文化戦争――たそがれゆく共通の夢』トッド・ギトリン 疋田三良・向井俊二訳(彩流社、2001年)
●『世界の99%を貧困にする経済』ジョセフ・E・スティグリッツ 楡井浩一・峯村利哉訳(徳間書店、2012年)