『WIN WIN(ウィンウィン)ダメ男とダメ少年の最高の日々』 『ディクテーター 身元不明でニューヨーク』 『ダークナイト ライジング』 試写

試写室日記

本日は試写を3本。

『WIN WIN(ウィンウィン)ダメ男とダメ少年の最高の日々』 トム・マッカーシー

デビュー作の『ステーション・エージェント』(03)と2作目の『扉をたたく人』(07)の成功によって、インディペンデント映画の期待の星となったトム・マッカーシー監督の待望の新作。

前2作の主人公や物語の構成には共通点があった。ある事情で人を遠ざけるようになった孤独な主人公が、別な事情で孤立している他者と偶然に出会い、次第に心を開き、自分の気持ちに正直に行動するようになる。

この新作の物語もそれらと似た構成のように見える。不況で仕事がなく、ストレスに悩まされるさえない弁護士マイクが、ひょんなことから家出してきた青年カイルに出会い、生活が一変する。前2作では、「鉄道」や「音楽」が主人公と他者を結びつけたように、新作では「レスリング」がマイクとカイルを結びつける。


しかし新作は、より身近で平凡な日常に踏み込み、誰もが陥りかねない状況を巧みに描き出している。前2作では、小人症という障害や家族の死という避けられない現実が、人を遠ざける原因になっていた。新作のマイクの場合は、家族や友人にも恵まれ、これまでかなりまっとうに生きてきたが、苦し紛れに犯したひとつの過ちが、次第に重くのしかかってくることになる。

マッカーシー監督が育ったニュージャージーを舞台にしたこの映画は、サバービアものとしてもコミカルかつリアルで、優れた人間ドラマになっている。

『ディクテーター 身元不明でニューヨーク』 ラリー・チャールズ

サシャ・バロン・コーエンが扮するのは、北アフリカのワディヤ共和国を支配するヒゲの独裁者ハッファーズ・アラジーン将軍。チャップリンの『独裁者』と対比して語られることが多いだろうと思われる作品だが、オーウェルの世界を想起させる部分も見逃せない。

独裁者アラジーンは言葉を操作する。ワディヤの辞書からたくさんの言葉を抹殺するだけではない。たとえば、“ポジティヴ”と“ネガティヴ”というふたつの言葉をともに“アラジーン”に置き換えてしまう。そうなると、HIV検査の結果はすべて“HIVアラジーン”になる。

そうした発想は局地的な笑いを生み出すだけではない。対極の関係が崩れ、逆転することによって、いつのまにかアメリカも、毒に満ちた笑いのターゲットになっているからだ。

『ダークナイト ライジング』 クリストファー・ノーラン

シリーズ前作の『ダークナイト』では、ヒーローの矛盾が描き出された。法に縛られないヒーローが必要とされるのは、悪がはびこり、法の番人では歯が立たないからだ。しかし『ダークナイト』では、ヒーローと悪の関係がねじれていく。

ジョーカーという悪人がのさばるから、バットマンが必要とされるのではない。バットマンがいるから、ジョーカーが彼に挑戦して卑劣なテロを次々と企てる。その結果、バットマンが守るはずの市民が、彼がいることで逆に犠牲になっていく。

だからバットマンは、素顔で戦うことができる地方検事ハービーに期待する。だが、その希望の星は、ジョーカーの罠にはまり、顔の皮が半分だけ剥がれ落ち、復讐に駆られるトゥー・フェイスに変貌してしまう。

結局バットマンは、トゥー・フェイスに素顔のハービーというマスクをかぶせることによって、正義を象徴する“ホワイトナイト”を再生し、自分は法を逸脱した“ダークナイト”のマスクをかぶり、消え去る。

シリーズ完結編となる『ダークナイト ライジング』では、『ダークナイト』で葬り去られた“ダークナイト”のマスクが、どのように肯定され、復活を遂げるのかがポイントになる。今回の敵ベインは、法を破るのではなく、法そのものを無効にし、ゴッサムを掌握する。そのことによってマスクを再定義するための舞台が整う。

バットマンと本作のオリジナル・キャラクターのひとり、ゴッサム市警の警官ジョン・ブレイク(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)との関係は、前作のバットマンとハービーの変奏になっている。ジョン・ブレイクは素顔で戦いつづけるが、後半である現実を目の当たりにして、考え方が変わる。見えないマスクを剥ぎ取るために、自分だけのマスクを必要とするといえばよいか。

バットマン、キャットウーマン、ベインはマスクをつけているが、マスクの意味は違う。マスクがそれぞれの過去と深く結びついているからだ。また、裕福な家に生まれた人間と地獄からはい上がってきた人間の違いを意識するあまり、相手のマスクが実態とは異なる幻想を生み出すこともある。