『コズモポリス』 『セレステ∞ジェシー』 試写

試写室日記

本日は試写を2本。

『コズモポリス』 デヴィッド・クローネンバーグ

ドン・デリーロの同名小説をクローネンバーグが映画化。映画では切り捨てられているが、原作では、巨大ハイテクリムジンから莫大なマネーを動かすアナリスト、エリック・パッカーの物語の途中に、彼の命を狙うベノ・レヴィンの告白が挿入される。

その告白もかなりクローネンバーグ好みの世界になっている。『裸のランチ』『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』のように、書くことと狂気や幻想が結びつけられているからだ。たとえば、以下のような表現だ。

世界は何か自己充足した意味をもっているはずだ。しかし、実際に自己充足しているものなど何もない。すべてが他のものに入り込む。俺の小さな日々が光年に染み込んでいく。だから俺は他人を装うことしかできない。そしてそのために、こうした原稿を書いているとき、俺は自分が他人を引用しているように感じるのだ。俺にはよくわからない。書いているのは俺なのか、それとも俺がその口調を真似したいと思っている誰かなのか


家柄や教育がどうといった伝記を語るタイプの書き方はしたくない。俺はページ上の言葉から立ち上がり、何かをしたいのだ――誰かを傷つけたいのだ。人を傷つけたいという思いが俺の中にあるのだが、そのことにずっと気づいていたわけではない。書くという行為とその深さが、俺にその能力があるかどうかを教えてくれる

そんなふうに表現される殺人者ベノ・レヴィンの内的世界も捨てがたいのだが、この映画化の場合は、切り捨てる選択が正しかったと思う。なぜなら、詳しいことはあらためてレビューで書くつもりだが、最も重要なのは身体や痛みに対する主人公エリックの両義的な感情であるからだ。

《引用文献》
●『コズモポリス』ドン・デリーロ 上岡伸雄訳(新潮社、2004年)

『セレステ∞ジェシー』 リー・トランド・クリーガー

わずか4館の限定公開から586館の拡大公開になったというラブストーリー。最初はありがちなラブコメかと思うが、ご都合主義に陥ることなく、リアルな感情をとらえた女性映画になっている。LAのライフスタイルや価値観がナチュラルに描かれているところも見所。

クインシー・ジョーンズを父に持ち、『ソーシャル・ネットワーク』『ビッグ・ボーイズ しあわせの鳥を探して』に出ていたラシダ・ジョーンズが、主演・共同脚本・製作総指揮を兼ねている。LAのトレンドリーダーとして絶大な人気を誇っているらしいが、頭が切れて、非常に表情が豊か。