今週末公開オススメ映画リスト2012/03/01+α

週刊オススメ映画リスト

今回は『世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶』、『戦火の馬』、『ピナ・バウシュ 夢の教室』、『父の初七日』、『プリピャチ』(順不同)の5本です。

おまけとして『アリラン』のコメントをつけました。

『世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶』 ヴェルナー・ヘルツォーク

1994年南仏で発見されたショーヴェ洞窟、その奥には3万2千年前の洞窟壁画が広がっていた。フランス政府は貴重な遺跡を守るため、研究者や学者のみに入場を許諾してきた。ここに初めてヘツルォーク率いるスタッフが入り、3Dカメラによる撮影を敢行した。(プレスより)

野生の牛、馬、サイ、ライオン、あるいはフクロウ、ハイエナ、ヒョウなど、その豊かな表現力には息を呑む。「CDジャーナル」2012年3月号にこの作品のレビューを書いておりますので、ぜひお読みください。で、そのレビューを補うようなことをこちらに。

この映画から浮かび上がる世界は、『グリズリーマン』(05)や『Encounters at the End of the World(世界の果ての出会い)』(07)といったヘルツォークの近作ドキュメンタリーを踏まえてみるとさらに興味深いものになる。


『グリズリーマン』の主人公ティモシー・トレッドウェルは、明らかに野生動物保護といった観点とはずれた(あるいは逸脱した)ところで、熊を愛し、自分自身が熊になろうとしていた。

『Encounters at the End of the World』に登場する様々な人々も、それぞれの分野の研究が目的で南極大陸という最果ての地に暮らしているというよりは、研究に限定されない奇妙な情熱に駆り立てられて、そこに引き寄せられているように見える。

ヘルツォークが彼らのなかに見出すのは深い孤独だ。それがどのような孤独かといえば、スペイン人の著名な古人類学者フアン・ルイス・アルスアガが書いた『ネアンデルタール人の首飾り』(藤野邦夫訳/新評論/2008年)のなかにある以下のような表現が当てはまるだろう。

われわれはどうして多くの生物のなかで、これほど孤立しているのだろうか。人間が地球上のほかの種とまったく交信できないことを、どのように説明するのだろう

『世界最古の洞窟壁画3D』には、多くの生物のなかで人間がここまで孤立してしまう以前の時間、世界が封印されている。

『戦火の馬』 スティーヴン・スピルバーグ

主人公はジョーイと名づけられた鹿毛の馬だ。そのジョーイは、“ET”や“AI”のように他者の眼差しを提供する。対立する世界のどちらにも帰属することなく、ひたすら境界を走りつづける。そして筆者が「スティーヴン・スピルバーグ02」で書いたような偽物と本物の転倒が起こる。

4年前にジョーイと引き離されたアルバートは、戦場で目を負傷しても、口笛でジョーイと交信することができる。アルバートを取り巻く世界は、その馬が彼のジョーイであることを信じない。しかし、泥まみれの馬から徴があらわれるとき、世界は転倒する。

スピルバーグらしい感動的な映画だが、限界も感じる。他者がETやAIであれば、他者と映画の関係はそれほど気にならない。しかし、他者が馬となると、最初に馬が在るのか、映画が在るのかで、その世界が大きく変わる。

最初に取り上げた『世界最古の洞窟壁画3D』であれば、まず馬(やその他の動物)がある。ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』でも、まず馬が在ると思う。しかし、『戦火の馬』ではまず映画があり、そのなかに映画によって具現化された馬がある。

だから、馬という他者を通して突き抜けていくのではなく、どうしても家族へと回帰するしかなくなる。

『ピナ・バウシュ 夢の教室』 アン・リンセル

ダンスの経験がなく、性格や家庭環境もバラバラな40人のティーンエイジャーがピナ・バウシュのもとに集まり、10ヶ月後にピナ・バウシュの代表作「コンタクトホーフ」の舞台に立つために、特訓を繰り広げる。

彼らのなかには、6歳のときにセルビアとコソボの紛争で祖父が焼き殺された少女や三年前にガス爆発で父親を亡くした少女、ボスニアからやってきたイスラム教徒でロマ語を話すジプシーの少年なども含まれる。

少年少女たちは特訓のなかで、ある意味で対照的な変化を見せる。一方ではダンスを通してそれぞれに殻を破って自分を解き放つ。と同時に、お互いに触れるというパフォーマンスを通して自分というものの輪郭を確認していく。

それは、結果としての舞台ではなく、過程にこだわる映画だからこそ見えてくるものだといえる。結果ではなく、変化をとらえた過程にこそ映画的な世界がある。

『父の初七日』 ワン・ユーリン

舞台は台湾中部・彰化県の片田舎。突然の父の訃報に、台北で働く娘アメイが帰郷し、夜店を営む兄ダージ、大学生の従弟シャオチュアンが集まり、道士でもある叔父アイーの指図で伝統的な道教式の葬儀が執り行われるが…。

父の死から葬儀までの七日間の物語だが、葬儀の日取りなどは占いによって決められるので幅があるようだ。遺族はしきたりによって、決まったときに棺のそばで泣かなければならない。アメイは、食事中や歯磨きの最中に突然、道士に呼ばれ、棺に駆け寄って声をあげて泣く。リュウ・ビンジェンの『涙女』でも描かれていた雇われの「泣き女」も登場するし、賑やかな楽団もやってくる。

ユーモアを交えて描かれる伝統的なお葬式だけでも興味深いが、主人公たちのキャラクターもそれぞれに味がある。筆者が印象的だったのは、都会と地方の距離だ。アメイは取引先からかかってきた電話に英語で答えるようなキャリアウーマンで、地方の伝統が遠いものになりつつある。道士の叔父には、かつて恋人が都会に出て行ってしまったつらい思い出がある。

この映画では、アメイのなかにふと甦る父親の記憶と地方の空気や伝統というものがさり気なく結びつけられている。

『プリピャチ』 ニコラウス・ゲイハルター

チェルノブイリ原発事故から12年後の現実。『いのちの食べかた』のニコラウス・ゲイハルター監督の1999年作品。劇場用パンフレットに「日常のなかにある個人と環境の関係として描き出していく」というタイトルで作品評を書いております。当ブログの『プリピャチ』劇場用パンフレットもお読みください。

以下はおまけのコメントです。

『アリラン』 キム・ギドク

キム・ギドクは大好きな監督ですが、『アリラン』試写室日記に書いたような理由でオススメ映画のリストからは外しました。

キム・ギドクの作品は、その完成度に優劣はあっても(個人的には『うつせみ』がベスト)、常に映像に圧倒的な力があり、新鮮さを失うことがなかった。筆者が彼の作品ではじめてそういう力や新鮮さを見出せなかったのが『悲夢』だった。

ギドクは決して特別ではないアイテムととんでもない想像力によって日常的な空間を特別な空間に変え、揺るぎない原則をあっさりと乗り越えてきた。しかし、夢で乗り越えるのであれば他の監督でもできる。だから『悲夢』は、誰か別の監督がギドクの真似をして撮った作品のように見えた。

実はその『悲夢』の撮影中にギドクにショックを与える事故が起こり、彼が作品を撮れなくなるきっかけになっていたというのは、なにか運命的なものを感じないでもない。