クリント・イーストウッド 『J・エドガー』 レビュー

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死者の声としての回顧録、権力者が無力な一個人に戻る瞬間

初代FBI長官J・エドガー・フーヴァー(1895-1972)を題材にしたクリント・イーストウッド監督の『J・エドガー』の世界に入り込むためには、いくらか予習が必要かもしれない。フーヴァーはFBIを強力な組織に育てあげ、48年に渡って長官の座に君臨し、8人もの大統領に仕えた。

そんな彼は国民的英雄と讃えられる一方で、膨大な個人情報を密かに収集し、それを武器に権力を振るった。生前から同性愛者という噂が流れていたが、それが事実だとすれば、敵対する政治家にダメージを与えるために同性愛者という情報を流すような卑劣な手段を使っていた彼は、自分にも怯えていたことになる。

この映画では、20代から77歳に至るフーヴァーの人生の断片が、時間軸を自在に操りながら描き出されていく。筆者はフーヴァーの実像に迫るアンソニー・サマーズの『大統領たちが恐れた男――FBI長官フーヴァーの秘密の生涯』を読んだことがあったので、さほど気にならなかったが、予備知識がないとそんな複雑な構成に振り回され、テーマがぼやけてしまいかねない。

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ケン・ローチ 『ルート・アイリッシュ』 レビュー

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戦争の民営化、冷酷なシステムによって崩壊していく地域社会

ケン・ローチの新作『ルート・アイリッシュ』(10)は、2007年、リヴァプールの教会における葬儀の場面から始まる。主人公のファーガスとフランキーは幼なじみの親友で、ともに兵士としてイラク戦争に参加した。だが、ファーガスが先に帰国し、残ったフランキーは無言の帰宅を果たすことになった。

フランキーが亡くなった場所は、バグダード空港とグリーン・ゾーン(米軍管理区域)を結ぶルート・アイリッシュ、イラクで最も危険な区域だった。関係者は、まずいときにまずい場所にいたという説明を繰り返すが、ファーガスは納得することができない。

それは激しいショックで自制心を失っているからだけではない。フランキーが亡くなった日、ファーガスの電話には「大事な話がある」という親友からの切迫したメッセージが残されていた。さらに、フランキーが残した携帯電話によって疑惑は決定的となる。そこには、フランキーが行動をともにしていた兵士ネルソンによって罪もない民間人が殺害される瞬間が記録されていた。

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ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ 『少年と自転車』 レビュー

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必死にしがみつく少年、誘惑の森、そして媒介としての自転車

カンヌ国際映画祭グランプリを受賞したダルデンヌ兄弟の新作『少年と自転車』(11)では、児童養護施設で暮らす少年シリルと美容院を経営するサマンサとの交流が描かれる。

間もなく12歳になるシリルは、彼を施設に預けた父親とまたいっしょに暮らすことを夢見ていたが、団地に戻ってみると父親はなにも告げずに転居していた。そのときサマンサと出会い、親切にされた彼は、週末を彼女の家で過ごすようになる。

シリルはその週末を使って父親を探し当てるが、戸惑う父親から突き放されてしまう。それを目の当たりにしたサマンサは、真剣にシリルの面倒をみるようになる。だが、かつて同じ施設にいた不良少年ウェスが、彼を巧みに丸め込み、利用しようとする。

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ジェフ・ニコルズ 『テイク・シェルター』 レビュー

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“不安の時代”を象徴的かつリアルに浮き彫りにした出色の心理スリラー

リーマン・ショックから異常気象による災害まで、いまの世の中には日常がいつ崩壊するかわからないような不安が渦巻いている。アメリカの新鋭ジェフ・ニコルズ監督の『テイク・シェルター』では、鋭い洞察と緻密な構成によってそんな平穏に見える日常に潜む不安が掘り下げられていく。

掘削会社の土木技師であるカーティスは、妻のサマンサと聴覚に障害のある娘ハンナと、温かい家庭を築いていた。ところが、あるときから幻覚や幻聴、悪夢に悩まされるようになる。

迫りくる巨大な竜巻、茶色っぽくて粘り気のある雨、空を覆う黒い鳥の大群、突然牙をむく愛犬、凶暴化する住人など、あまりにもリアルなヴィジョンが彼の現実を確実に侵食していく。やがて彼は、避難用シェルターを作ることに没頭しだす。

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ナ・ホンジン 『哀しき獣』 レビュー



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社会的な視点と壮絶なアクションが根源的な痛みを炙り出す

ナ・ホンジンの『哀しき獣』では前作『チェイサー』以上に壮絶な死闘が繰り広げられるが、その世界に入り込むためには、中国の朝鮮族のことを少し頭に入れておくべきだろう。この物語には、中国にあって北朝鮮、ロシアと国境を接する延辺朝鮮族自治州と韓国の関係が反映されている。

中国朝鮮族と韓国は、1992年に中国と韓国の間で国交が結ばれたことをきっかけに経済的に急接近する。そして韓国との交易が延辺地区を潤すかに思われた。だが、韓国資本への一方的な依存は、アジア金融危機による打撃、あるいは差別や詐欺などの被害を生み出すことにもなった。それが『哀しき獣』の背景だ。

物語は延辺朝鮮族自治区・延吉から始まる。タクシー運転手のグナムは、韓国に出稼ぎに行った妻からの音信が途絶え、借金で首が回らなくなっている。そんな彼に、延吉を仕切る犬商人ミョンが、韓国に行って人を殺す仕事を持ちかける。グナムは、妻に会えるかもしれないと思い、それを引き受けてしまうが、黄海(映画の原題)の向こうには予想もしない悪夢が待ち受けている。

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